【家事シェアの極意】家事分担をやめてよかったこと【家事こそ二馬力で】
この記事で言いたいのは,「理想は家事シェア」で「家事も二馬力で」ということだ。
なぜこの『ぐりとぐら』で有名な中川李枝子さんの書籍から引用したかというと,ぼくが今育休中でそれをテーマに書いているからだ。
そして,「良い子育ては夫婦仲良く」であるのなら,「夫婦仲良く」のために家事は避けては通れない道だからだ。
夫婦の家事分担
みなさんの家庭での夫婦の家事分担の割合はどれくらいだろうか。
これを見てどう感じるだろうか。夫少なすぎると感じるのは言うまでもないことだが,ある疑問も浮かんでくるだろう。
「何をもって割合が決まっているのか」
なんとなく,だいたいの肌感覚での割合だろう。家事にかける時間の割合なのか,家事の内容や量による割合なのか。
家庭によって状況が様々であることも留意しなければならない。共働きの家庭なのか,共働きだとしてもどちらかがフルタイムの勤務ではない場合もあるだろう。
子どもの年齢によっても変わってくるかもしれない。何を前提にして夫婦の家事割合を決めたり,論じたりするのか。
この記事内に出てくる言葉,「見えない家事」や「家事シェア」についても触れていきたい。
見えない家事
【見えない家事】とは,たとえば【ゴミ出し】という家事について,夫がゴミ出しをしているから,夫よくやっているね!ということではなく,【ゴミ出し】の前段階の【ゴミをまとめる】というのがこの【見えない家事】にあたるようだ。
ゴミ出しという家事を夫がやっていても,【ゴミをまとめる】家事は,奥さんがやっていることが多い。家事をやっている人ならば,料理や他の家事でも似たようなことを容易に想像できるだろう。
家事シェア
「家事シェア」といういかにも流行りものっぽい言い回しにツッコむのは置いておこう。ただ,結果的に家事について困っていない家庭はこの方法をとっていることが多いのではないだろうか。
育休に入り,仕事をしている時より家事をすることが多くなって気が付いたことがあった。
わりと好きな家事と苦手な家事
仕事をしている時は,自分が「わりと好きな家事」しかしていなかったな、と。家事に「好きも嫌いもない」という人は,「どちらかというと苦にならない家事」と読み替えてもらってもいい。
ぼくにとって,「わりと好きな家事」は,掃除機がけ,風呂掃除,米とぎ,洗濯物を干したり畳んだりすること,食器洗い,ゴミ出しだ。
「苦手な家事(きらいな家事(やりたくない家事(やってもらいたい家事)))」は,料理,片付け,整理整頓だ。
ありがたいことに,ぼくにとって「苦手な家事(以下省略)」である料理や片付け,整理整頓は,奥さんにとっては「わりと好きな家事」であるようだ。
「分担」の落とし穴
「家事分担」というと,良い言葉のようにも思えるが,いくつかの落とし穴がある。
「分担以外の家事」はやらなくていいことになる
「分担の家事」をするのが義務化される
相手がやっていないと責めたくなる
自分がやっていないと精神衛生的に不健全になっていく
他にもあるかもしれないが,分担されると責任が生じる。責任があるということは義務化されてしまう。義務を果たさなければ非難される。
子どもがまだ小さい場合は,家事をやるのは夫婦の2人だ。1日に必要な数多ある家事を2人でやりきればいい。わざわざ分ける必要はない。
つまり,家事シェアの極意は,「できる人ができるときにやる」となる。
家事シェアの実現のために
「家事シェア」という言葉の意味や定義づけについては,人によって変わる場合もある。ここでは,「役割分担を決めずに,できる人ができるときにやる」とする。実際に,我が家ではそうしている。
ただ,ここで世の中のパパさんに言っておかなければならないことがある。
「家事シェア」を夫婦共に満足できる形で成し遂げるには,「夫婦2人ともがすべての家事をできる状態」にしなければならないということだ。
2人ともがすべての家事をできるようになっておかないといけない。これを聞いて,無理だというのは早計である。
というか,やったこともない家事(もしくは1度や2度しかやったことのない家事)に対して,好きも嫌いもないだろうということだ。まずは,やるべきだ。やらなければならない。
ぼくは育休だからできたのかもしれない。すべての家事ができるようになった。苦手な家事もするようになった。苦手な家事をすると2パターンに分かれる。意外と苦にならない場合と相変わらず苦手なままな場合だ。それもやってみないと分からない。
どうしても料理だけはできない(しない)という男がいる。ぼくもその1人だった。ただ,やってみればいい。嫌いなものは嫌いでもいい。やってみると,あることが分かってくる。
すべての家事ができることで,イライラすることも減る。自分のストレスも奥さんのストレスも子どものストレスも,家族全員のストレスを最小化することに貢献できるということに。
すべての家事ができる父親に
夫婦2人ともがすべての家事ができるようにしておけば,色々な事態に備えられる。
例①
ある日,夫が17時までに夕食をとりたいと思っていたとする。奥さんは子どもを連れてママ友と公園に行っている。奥さんは16時すぎには帰ってきてご飯を作る予定だった。その奥さんがママ友と話したり子どもを公園で遊ばせたりしていてなかなか帰ってこない。
よくあることだと思う。こんな時,「早く帰ってこい!夕食を作ってくれ!」とイライラする暇があれば,自分で家族全員分の夕食を作って,お風呂掃除をしてお風呂を溜めて待っておけばいいのだ。
例②
ぼくの家庭では,お風呂に入ってから夕食ということもある。その場合,先にお風呂にぼくと下の子(1歳)が入る。体を洗い終えたところで上の子(3歳)が入ってくる。その間,奥さんが料理をしてくれている。上の子が体を洗い終えたタイミングで,ぼくと下の子がお風呂から出て奥さんと入れ替わる。奥さんと下の子がお風呂にいる状況だ。ぼくはお風呂からあがったら,奥さんがしていた料理の続きをやる。
他の家事でも,やむを得ず途中になっていた家事があると,できる方がそれを引き継ぐ。明確な分担はない。なんとなくバランス的に,最近奥さんのほうに家事の比重がのっているなと感じたら,自分が次の日でも1週間後でもがんばればいい。
不公平で不平等な家事
どうしても人間2人でいると,平等や安定を求めてしまう。不公平は嫌なのだ。それはものすごくわかる。家事もそうだろう。専業主婦の家庭は別かもしれないが,共働きの家庭だと,家事の割合は「50-50」が望ましい。
「家事分担」となると,2人ともが初めから納得しているのであれば問題ないかもしれない。ただ,心のどこかで,「家事評価」なるものがある。
「簡単な家事」と「めんどくさい家事」,「手軽な家事」と「大変な家事」なんとなく感じていることを数値化して優劣をつけることは難しい。いずれにせよ,すべてのことに言えるが,やってみないとその大変さはやった者にしか分からない。
だとすれば,合理的な戦略は,やはり「夫婦が家事シェアをすること」になる。
家事シェアをやっていると,1日単位での不公平感や不平等感がなくなる。
その日,1日のみで家事をやった割合に不公平に感じるのではなく,もっと長いスパンで考えられるようになる。家庭や家事を俯瞰的にミドルレンジの距離から見ることができるようになる。
ぼくが夫婦共働きをしていた頃は,仕事の時間や量という条件は同じなのに,家事分担をしていたら,やはりどうしても不公平感があった。今日,こんなに家事したのに感謝してもらえない。など。
「自分のほうが家事をしている」は勘違い
これも男にありがちなことだと思うので触れておく。
普段というか一般的に,「男は家事をやらない」とされているので,そのハードルの低さから,少し家事をやり始めたらめちゃくちゃやっている感を出す人がいる。
実際に,女性にとっては当たり前の家事を,男がやるだけでたくさん褒められることもある。
ここまでで,すでに納得いかない女性の人がたくさんいることは承知だが,(イライラする)問題はこの先にある。
ダニングクルーガー効果という認知バイアスをご存知だろうか。
この認知バイアスをここで当てはめようとするのは,間違いかもしれない。間違っていたらすみませんとしか言いようがない。
ぼくが言いたいのは,家事をたくさんやり始めて,「自分のほうが家事やってるわー」と思ったときは,だいたいまだまだ奥さんのほうがやっているということだ。
これも肌感での判断にはなるが,なんとなくここ最近の家事のバランスが「自分は6割で奥さんが4割くらいだな」と感じたら,おそらく実質的には,「自分が3割で奥さんが7割くらい」だろう。
おそらく「自分が8割家事やった!今日は奥さんは家事2割くらいしかやっていない!」そう思ったとき,実質的にようやく「自分5割,奥さん5割」くらいになると思う。
なそう言えるのかと言うと,先述したような「見えない家事」はだいたい奥さんがやってくれている。
「家事」という名前のつかない家事もある。その大半は,奥さんが担ってくれているし,自分が気付かないところでやってくれている場合も考慮したほうがいい。
家事初心者である我々は,「ザ家事」という分かりやすい家事を8割以上やることで,ようやく土俵に立てるといっていいだろう。
家事も二馬力で
よく友人と話していると,奥さんがパートで家計が苦しいという人がいる。出産をきっかけに奥さんが仕事を辞めてしまって,辞めさせたことに後悔している人がいる。
「二馬力いいな」と。
それは,家事や育児においても同じだと思う。仕事が二馬力だと実際にお金というかたちで目に見えるものを与えてくれる。お金が精神的なゆとりや安定をもたらしてくれることも分かっている。
これは,家事や育児にもそのまま当てはまる。
家事や育児を夫婦ともにやっていくことで,何が生まれるのか。お金とはちがったかたちでの,精神的なゆとりや安定だ。
ただ,生きているだけでストレスがたまってしまう社会において,家事や育児を一緒にやっていくことは,ストレスを最小化するのに役立ってくれる。
ぼくは1年間の育休を取得し,それが間もなく(といってもあと20日ほど)終わろうとしている。
「育休で自分は変わった!」というのであれば,その真価は復帰後に分かる。
仕事を復帰したとたん,元の自分に戻っては意味がない。
この記事を読みながら(こんなに長い記事を最後まで読んだ人はいないだろうが),「それは育休だから言えるきれいごとでしょ」と思った人もいるはずだ。「仕事をしながらだと無理!」と思った人もいるだろう。
すべての家事ができるようになること
「できる人ができるときに」家事シェアをやること
家事の二馬力化
仕事を復帰したぼくが,「これが育休だから言えたことではない」と証明しよう。
※この記事は,ぼくがブログに書いた記事を加筆修正したものです。
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