見出し画像

合気道に「力」は不要?

(1)「力」を必要としない合気道の源流


①「お箸が持てれば合気道はできますよ」(by 大先生)

「力(腕力)」を必要としない武道、というのが「合気道」の一般的なイメージだと思います。

これはおそらく、「相手の力を利用する」という言い回しや、漫画『刃牙シリーズ』に登場する「渋川剛気」(モデルは合気道養神館の創設者・塩田剛三先生)等の影響によるものと考えられます。

また、合気道の開祖・植芝盛平先生(以下「大先生」と表記)の、「お箸が持てれば合気道はできますよ」という言葉も伝えられています。

(前略)女の子を連れたお母さんが大先生に「この子は力が無いのですが合気道はできますか?」と尋ねられると、大先生は「お箸が持てますか? お箸が持てれば合気道はできますよ」と仰っていましたよ

『開祖の横顔 14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿』(2009, BABジャパン, 奥村繁信師範の回, p184, 太字化は筆者による)

「お箸が持てれば~」というのは少し極端な表現かもしれませんが、合気道は「力(腕力)」がなくてもできる、という点には、私も強く頷けます。

ですが、「お箸が持てれば~」と仰った大先生はもちろん、合気道を普及させた直弟子の方々の多くは、「高い身体性(強い身体/鋭敏な身体感覚)」をお持ちでした。その「高い身体性」があったからこそ、激しい稽古や自己鍛錬が可能であり、そうした稽古を通じて、「単純な力(腕力)に頼らない合気道」という武道が育まれた、と考えられます。

このように、「力を必要としない合気道」の源流には、「高い身体性(強い身体/鋭敏な身体感覚)」が存在している、という点は見逃せません。

(2)稽古をする人々の「身体」の変化


①「日常」で獲得されていた「動ける身体」

便利になった現代では、「身体」を使う機会はどんどん減っています。仮想空間で自分のアバターを動かす「メタバース」など、その最たるものです。

一方、明治生まれの大先生はもちろん、明治~昭和初期に生まれた直弟子の方々も、われわれ現代人とは比較にならないほど、「日常」において「身体」を使った生活をしていました。そして、「日常」を通して獲得した「動ける身体」で、合気道の稽古に臨んでいたはずです

例えば、「お箸が持てれば~」のエピソードに登場する「力が無い」と言われた女の子。お母さんが心配するくらいですから、同年代の子と比べて「力(腕力)」は弱かったのでしょう。

ですが、今よりも交通が不便で、屋内の娯楽も少ない時代です。「日常」の移動や外遊びなどを通して、便利な時代を生きる現代っ子よりも、よほど「動ける身体」を培っていたと思います。つまり、「力(腕力)」はなくても、合気道の稽古をするための、「動ける身体」は持っていたと想像できます(あくまで想像ですが…)。

② 大先生も「日常」を通して「動ける身体」を獲得した

そんな大先生が、幼少期に「日常」の中で「動ける身体」を獲得していったエピソードを引用させていただきます。

 与六(筆者注:大先生のお父上)の怪力ぶりは前にも少しふれたとおりだが、機をみてはわざと開祖の前でひょいと米俵をかついでみせたりする。朝早く、天神山、日天子、庚申、金刀比羅、東八王子、西八王子などの祠めぐりなどに同道させたりもしたらしい。夜は夜で浜につれ出して、漁師の子と相撲をとらせたりしたようである。
 そのように”力くらべ”をさせるうち、開祖は、父や仲間たちに負けん気をおこしもし、また自然に腕力や足腰の力がついていったという。

『合気道開祖 植芝盛平伝』(1999, 植芝吉祥丸 編著, 植芝守央 改訂版監修, 出版芸術社, pp54-55)

このように、明治~昭和初期に生まれた大先生や直弟子の方々はもちろん、その下で合気道を稽古していた一般の人々も、デスクワークや屋内の娯楽で凝り固まったわれわれ現代人よりも、遥かに「動ける身体」を持っていたと考えられます。

それはつまり、合気道の稽古に臨む段階での「前提」である「身体」が、われわれ現代人とは異なっていた、ということになります。

単純な「力(腕力)」を必要としない合気道ですが、それを稽古する人々の「前提」(=「身体」)が変化している、という点には、注意が必要です。

なぜなら、稽古に臨む段階での「前提」(=「身体」)が異なれば、その稽古から得られる「成果」は、質・量ともに変化するからです。

③「高齢化」という「身体」の変化

合気道には「身体」という「前提」が必要です。これはいつの時代も変わりません。ですが、この「前提」の、時代に伴う「変化」については見落とされがちです。そのひとつが、稽古をする人々の「高齢化」です。

前項では、「日常」の変化に伴い、稽古をする人々(われわれ現代人)の、「動ける身体」の獲得が難しくなっているという現状に触れました。ここでは、もう1つの大きな「変化」である「高齢化」について見ていきます。

合気道の世間一般への普及は、戦後に始まりました。私の師匠である多田宏先生(合気会本部師範, 九段)の植芝道場への入門が1950年(昭和25年)、大先生がお亡くなりになったのが1969年(昭和44年)です。そして、まさにこの時代から、日本全国・世界中への合気道の普及が始まりました。

では、合気道の普及が始まった頃の日本人の「身体」と、現代日本人(令和5年現在)の「身体」は同じものでしょうか?

「平均年齢」の推移から考えてみます(*1)。①1950年(多田先生が植芝道場へ入門)、②1970年(大先生ご逝去の翌年)、③2021年(2023年8月現在の最新統計)を比較します。

  • ① 日本人の平均年齢(1950年):26.6歳

  • ② 日本人の平均年齢(1970年):31.5歳

  • ③ 日本人の平均年齢(2021年):47.9歳

1950年から2021年にかけての71年間で、日本全体で21.3歳分の高齢化が進んでいます。単純に平均年齢だけを見れば、合気道を稽古する日本人集団の「身体」は、20歳以上も「加齢」が進んだことになります。

「加齢」に伴う身体の「変化」は無視できるものではありません。「加齢」は「身体」が動かなくなる一大要因だからです。

稽古集団の年齢が21.3歳分だけ上がれば、同じ稽古をすることは難しくなります。また、この「変化」を無視した稽古を行えば、大切な「身体」を痛めかねません。

(3)稽古の「前提」(=「身体」)を整える


①「前提」(=「身体」)の変化を見つめる

創始者である大先生が「お箸が持てれば合気道はできますよ」と仰るのですから、合気道は単純な「力(腕力)」に頼らない武道であることに、疑いの余地はありません。

また、いつの時代も、合気道には「身体」という「前提」が必要です。この点も変わることはありません。ですが、時代が進むにつれて、この「前提」(=「身体」)が「変化」していることは見落とされがちです。

ここまで、合気道を稽古する人々(特に日本人)の「身体」の「変化」を見てきました。要点をまとめれば、次のようになります。

  • 合気道は「力(腕力)」を必要としない武道(お箸が持てればできる)

  • 合気道の開祖である大先生も、合気道を普及させた直弟子の方々も、「高い身体性(強い身体/鋭敏な身体感覚)」を持っていた

  • 現代人は、「日常」や「高齢化」という時代の変化に伴って、稽古の「前提」(=「身体」)が衰えている

単純な「力(腕力)」の必要性だけに着目すると、その土台である「身体」の「変化」を見落とす危険性があると思います。

② 稽古の「前提」(=「身体」)を、自分で整える

「力(腕力)を必要としない合気道」は、大先生を源流として、連綿と受け継がれる素晴らしい武道だと私は確信しています。

このような素晴らしい武道の稽古から、変わらずたくさんの果実(成果)を得るためにも、「身体」という稽古の「前提」を、より深く見つめる必要があると思います。

そして、稽古の「前提」となる「身体」は、道場の外において、自分で整える必要があります。この点については、別の記事に書く予定です。

(参考)大先生やその直弟子の「身体」


① 大先生の「強さ」

合気道は、明治16年(1883年)にお生まれの植芝盛平先生によって創始されました。大先生の激しい修行ぶりを伝える数々の逸話には圧倒されますが、それ以外にも、大先生の「日常」を通じた「事上磨練」に驚かされます。まさに、「日常」が「修行」だったのです。

例えば、大先生が北海道・白滝村(現・遠軽町)に、紀州開拓団の団長として入植した時期(明治末期~大正初期)のエピソード。

白滝村の深刻な食糧不足の救済補償を求め、大先生は馬を駆って道内を東奔西走します。そして、その多忙の間を縫って原野の開墾に従事し、人の何倍もの伐木を行いました。直径1mを超える巨木の原生林を、マサカリ等の手道具だけを頼りに、1年間に500本以上を伐り倒したと伝えられています(*2)。

大先生の剛力エピソードはたくさん伝わっていますが、それは「筋トレ」などではなく、日常生活の中で培われた「力」でした。まさに「事上磨練」といえます。

ちなみに、「事上磨練(または事上練磨)」という考え方に私が触れたのは、能楽師・安田登さんの書籍でした。その書中には、「事上磨練」について、このような記述があります。

(前略)能には発声練習も柔軟運動もありません。最初に稽古を行ったときから謡(能の歌)を謡わされ、何もわからないのに舞わされます。謡のために発声練習をするとか、舞のために柔軟をするとか、何かのためにそれをするのではなく、まさにそれをする、それが日本流の稽古なのです。

『体と心がラクになる「和」のウォーキング』, 安田登, 祥伝社, 初版, pp36-38, 太字化は筆者による
『体と心がラクになる「和」のウォーキング』

この考え方を合気道に当てはめれば、「合気道の稽古を通して、合気道ができる身体を培う」、ということになります。とても実践的で、理に適った考え方だと思います。

大先生に関する超人エピソードは枚挙に暇がありませんので、興味のある方は以下の書籍をお読みください。いずれにせよ、合気道の源流である大先生が、現代人とは比較にならないような、強い「身体」をお持ちだったことは間違いありません。

なお、大先生は幼少時、病気がち(腺病質)でひ弱なところの目立つ子どもだったと伝えられています。それを、不屈の気力と鍛錬した体力によって克服していったそうです(*3)。

  • 『合気道開祖 植芝盛平伝』(1999, 植芝吉祥丸 編著, 植芝守央 改訂版監修, 出版芸術社)

  • 『開祖の横顔 14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿』(2009, BABジャパン)

『合気道開祖 植芝盛平伝』
『開祖の横顔 14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿』

② 直弟子である多田先生の「強さ」

大先生の直弟子である多田先生も、圧倒的な身体の「強さ(命の力)」をお持ちです。

93歳(令和5年8月現在)というご年齢ですが、いまも道場に出て、バリバリと稽古・指導をされています。私が通った自由が丘道場にも、ほぼ毎週、1時間近くかけて、ご自宅から電車で移動して指導をされています。

コロナ禍直前の2019年までは、東京の道場での指導に加えて、日本各地での講習会、さらに1年に3回のヨーロッパ講習会(夏季はほぼ1ヶ月間の日程)をこなされていました(2019年時点で89歳)。

そんな多田先生なので、超人エピソードには事欠きません。例えば、このような…

● 早稲田大学空手部での稽古を終えて、他の部員がふらふらになっているのに、そこから合気道の稽古に行っていた(筆者注:当時の合気道の稽古は、今では考えられないくらい、激しいものだったはず…)
● 40歳になるまで「疲れ」というものを知らなかった(「疲れ」という言葉の意味がよく分からなかった)
● 70歳になって初めて風邪を引いた

参考:『月刊秘伝(2011年1月号)』BABジャパン, pp30-33

多田先生に関しては、生来、頑健なお身体をお持ちだという面もあると思います。ですが、徹底的な自己管理と合気道の稽古などを通して、その「強さ(命の力)」を育て・保っておられるように感じます。それは、90歳を超えた今も同じです。むしろ、年齢を重ねるほど、心身の調子を保つ工夫を重ねらておられるように感じます。

なお、多田先生の生い育ち・修行歴、合気道観などは、この1冊にまとめられています。ご興味のある方は、こちらの書籍をお読みください。

  • 『合気道に活きる』(多田宏, 2018, 日本武道館)

『合気道に活きる』

(本文終わり)


【参考・引用文献】

  • (*1)国立社会保障・人口問題研究所(人口統計資料集, 2003年版・2003年改訂版)

  • (*2)『合気道開祖 植芝盛平伝』(1999, 植芝吉祥丸 編著, 植芝守央 改訂版監修, 出版芸術社, pp87-88)

  • (*3)同書, pp50-51



【合気道至心会のご案内】

岐阜市を中心に活動する、合気道の道場です。

詳細はこちらのHPをご覧ください。

◎ご連絡は、WEBサイト内の「お問合わせ(以下URL)」から!

◎日々の稽古録を、こちらで公開しています(※概要のみ)。

各種SNSでも活動を報告しています。
よろしければ、フォローをお願いします。

▶ Instagram(@aikido_shishinkai)https://www.instagram.com/aikido_shishinkai/

▶ Twitter(@ShishinKai_1111)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?