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「持たれる」のではない、「持たせる」のだ!
(1)開祖・植芝盛平先生の教え
合気道の稽古は、基本的に、「受け(技を受ける人)」が最初に仕掛ける(取る、打つ 等)ことから始まります(下図1)。
![](https://assets.st-note.com/img/1684300964702-EGwMWWFK2B.png?width=1200)
このとき、当会では、「取り(技を掛ける人)」は、「(受けに)持たれる」「(受けに)打たれる」といった受動的/相対的な表現をしません。
その代わり、「(自分から)持たせる」「(自分から)打たせる」といった、主体的/絶対的な言葉を用います(下図2)。
![](https://assets.st-note.com/img/1684716440573-hbM1IJW4Wu.png?width=1200)
これは、私の師である多田先生の教えですが、その由来は、合気道開祖・植芝盛平先生(以下「大先生」と表記)の教えに遡ります。
多田先生が植芝道場(現・合気会本部道場)で稽古していた頃のお話。別の道場生が「こう持たれたら・・・」と説明しているのを聞き咎めた大先生は、次のように注意されたそうです。
「持たれる」のではない、「持たせる」のだ!
この点について、故・奥村繁信先生(九段)も、大先生に関するインタビューの中で、次のようにお話になっています。
大先生は「合気道では(相手に)隙があっても飛び込むな」と言われましたね。昔の侍も「斬られた」とは言わず「斬らせた」と言ったそうですけど、合気道も同じで(手を)「持たれた」ではなく、「持たせた」。技も相手を飛び込ませて取る。
合気道では、なぜ、「持たせる」という主体的/絶対的な表現を用いるのでしょうか?ここからは、その意味について考えていきます。
(2)主体的/絶対的な言葉を使う理由(合気道は「絶対的な安定」を目指す)
合気道の稽古にあたって、一切、勝負、競う稽古法を採らないのは、この対立、対峙を超える、心法の道の稽古法を徹底するためである。
「対立、対峙を超え」た状態というのは、「絶対的な安定*」と言い換えられます(*対義表現は「相対的な安定」)。
「相対的な安定」とは、相手との優勝劣敗等の比較において、自分が優位に立つことで得られる状態です(比較劣位の状態では、不安定となります)。
合気道が、試合をせず・点数を付けず・強弱を争わない稽古法を採るのは、「相対的な安定」ではなく「絶対的な安定」を目指すためなのです。
ですが、「絶対的な安定」であることを強く願うだけでは意味がありません。「絶対的な安定」を目指す稽古には、そこで用いる「具体的な言葉(表現)」や、それに伴う「具体的な動作」が必要となります。
「具体的な~」という点が重要です。
「目に見えない」状態を目指すための手がかりとして、「目に見える(または耳に聞こえる)」、具体的な言葉(表現)/動作が大切となるのです。
ここまでの内容を整理します。
○ 合気道の稽古は「絶対的な安定」(=「対立・対峙を超えた状態」)を目指す(だから、競争・比較をしない)
○「絶対的な安定」を目指す稽古では、「具体的な言葉(表現)/動作」に気を配る必要がある
(3)「絶対的な安定」を目指す稽古に必要な、「具体的な言葉(表現)」とは?
それでは、「絶対的な安定」を目指す稽古に必要な、「具体的な言葉(表現)」とはどのようなものでしょうか?
まずは、大先生が用いられた表現を確認してみます。
(例1)「持たれる」のではない、「持たせる」のだ!
(例2)気合をもって横面を「打たせる」
なぜ「持たれる」や「打たれる」といった、表現ではダメなのでしょうか?
それは、自分の心(意識)が、相手に留まる状態を回避するためです。
「(受けに)持たれる」・「(受けに)打たれる」という受動的/相対的な表現を用いるとき、「取り」の意識は、受けに囚われた状態にあります。(下図3)。
![](https://assets.st-note.com/img/1684719390760-NCgcg3lGCO.png?width=1200)
受動的/相対的な言葉には、次のような思考が続きます。
「(受けに)持たれた」→「それでは、(自分は)こう崩そう」
「(受けに)打たれた」→「それでは、(自分は)こう動こう」
このとき、(ここまでに整理した視点から見れば、)すでに2つの大きな問題が生じています。
【問題①】「(自分は)~しよう」というのは、受けと「比較(=対立・対峙)」の舞台に並び立つ、「相対的な状態」です。「絶対的な安定」ではありえません。
【問題②】「受け」に意識が囚われた状態(傾注の状態)は、「受け(=対象)」に心が留まる状態です。心の自由を失った状態とも言えます。心の自由が失われたとき、武道的には、致命的な「隙(すき)」が生まれています。
このように考えていくと、「絶対的な安定」を目指す稽古のためには、
「(受けに)持たせる」・「(受けに)打たせる」といった、主体的/絶対的な言葉(表現)でなければならないことが、見えてきます。
(4)「絶対的な安定」を目指す稽古に必要な、「具体的な動作」とは?
ここまで、「絶対的な安定」を目指す稽古のために必要な、言葉(表現)について考えてきました。
ですが、「言葉」だけでは合気道の稽古はできません。稽古法として、「言葉」に伴う、具体的な「動作(稽古法)」が必要です。
そして、それはもちろん、主体的/絶対的な動作(稽古法)となります。
それでは、「主体的/絶対的な動作(稽古法)」とはどのようなものでしょうか?
①(自分から)持たせる/打たせる
具体例を挙げてみます。
「持たせる」=「(自分から)手を出して、受けに持たせる/取らせる」
「打たせる」=「(自分から)前に出て、受けに打たせる」
「持たれる」(受動的/相対的)でも、「持たせる」(主体的/絶対的)でも、どちらも「受けが自分の手首・腕を持つ/取る」という、外見は同じです(写真①)。
![](https://assets.st-note.com/img/1684803531701-ws5RFxdmvr.jpg?width=1200)
ですが、「(自分から)持たせる/打たせる」ためには、その前段として、(意識も体も)自分から前に出る必要があります。
その稽古は、受けが自分の前に出てくる(または打ってくる)のを待ち、それを見てから対応する稽古とは、全くの別物です。
まさに、相手との比較(対立・対峙)を超えた、「絶対的な安定」を目指す稽古*となるのです(*「自分勝手な稽古」とは異なる点に、よくよく注意が必要です)。
ちなみに、大先生の稽古は、まさに「持たせる/取らせる」ものでした。次の文章は、大先生による朝稽古の風景を描写したものですが、どこにも受動的/相対的な様子は見えません。合気道を稽古する我々後進は、こうした合気道の源流を見逃してはならないと思います。
植芝盛平先生の稽古
(前略)とり舟、振る魂の行を行った後、先生は長い袖口をまくりながら門人に近寄られ、すーと手を差しのばされた。すると、まるで磁石に引き寄せられるように門人が立ち上がり、先生の腕を両手で握ったと思った時には、もう投げられていた。
先生は次々と門人を投げ、私に近づかれると、同じように、招くように手を出された。他の人が行っていたように、私は立ち上がり、先生の腕を力一杯握ったと思ったときには、私はもう転がっていた。その間、先生はずっと無言であった。
(筆者注:多田先生が入門直後に参加された朝稽古の風景。文中の「私」は多田先生、「先生」は大先生を表す)
②「~しよう」と思わなくても「~できる」
「応無所住而生其心」(おうむしょじゅうじしょうごしん)
沢庵禅師の『不動智神妙録』(江戸時代初期の伝書)にある表現です。
意味は次のようになりますが、簡単に言えば、「~しよう」と思わなくても「~できる」状態が望ましい、ということです。
(現代訳)
どんなことをする時でも、これをしようと思うと、その、やろうとすることに心が止まります。ですから、それを止めずに、やろうという心を持つべきだということです。
(原文)
万の業(わざ)をするに、せうと思ふ心が生ずれば、其する事に心が止(とどま)るなり。然る間止る所なくして心を生ずべしとなり。
「~しよう」というのは、合気道で言えば、「(相手を)こう崩そう」とか「(相手を)こう投げよう」という意識のことです。
「(相手を)崩そう/投げよう」と思えば、その瞬間、相手に心が留まります。そして、相手に心が留まるとき、そこには隙が生まれています。昔の剣術であれば、隙が生まれた瞬間、バサリと斬られて終わりです。
また、「(相手を)こう崩そう」とか「(相手を)こう投げよう」という意識のもとに行う稽古は、「(相手との)比較(=対立・対峙)」の舞台上で行なわれる、「相対的な稽古」となります。
そして、「(相手を)こう崩そう/こう投げよう」という意識のもとに行う稽古は、どこまで行っても「相対的な稽古」であって、「絶対的な安定」を目指す稽古からは遠ざかっていきます。
だからこそ、稽古では、主体的/絶対的な稽古(「~しよう」と思わなくても「~できる」状態)を、最初から、目指す必要があります。
(注:「(相手を)こう崩そう/こう投げよう」という意識や動作が1度身に付くと、それを修正することは大変難しくなります。)
では、具体的には、どのような点に注意が必要なのでしょうか?
「~しよう(崩そう/投げよう)」と思わずに「~できる(崩せる/投げられる)」ためには、次のような点に注意を払います。
「相手」や「自分の手元」を見ない(※そのために「触覚」を大切にする/「(自分が安定する)目付(目線)」を大切にする)
「(小手先よりも)体の位置」を大切にする(※そのために、相手を「通り抜ける」ように行う/動くことで技になるように心がける)
「~しよう」という意識(意図)は、「(目に見える)動作」となって表れます(例:相手を見る/自分の手元を見る)。
だからこそ、稽古では、「(目に見える)動作」に心を配りながら、自らの「(目に見えない)意識」の在り方を探ることになります。
(5)まとめ
改めて、大先生の教えを確認します。
「持たれる」のではない、「持たせる」のだ!
この教えをスタート地点として、合気道の稽古で用いる言葉(表現)と、具体的な稽古法について考えてきました。
最後に、ここまでの内容を整理してみます。
(1)合気道は、稽古を通して、「相手との比較(対立・対峙)」を超えた、「絶対的な安定」を目指す。だからこそ、試合をせず・点数を付けず・強弱を争わない。
(2)「絶対的な安定」を目指す稽古のためには、主体的/絶対的な言葉(表現)が必要(例:「(受けに)持たせる」・「(受けに)打たせる」)。
(3) 主体的/絶対的な言葉(表現)には、「(自分から)手を出して/前に出て、(受けに)持たせる/打たせる」という、主体的/絶対的な動作が伴う。
(4)「絶対的な安定」を目指す稽古とは、「~しよう(崩そう/投げよう)」と思わなくても、「~できる(崩せる/投げられる)」稽古といえる。その稽古は、「(対象に)心(意識)を留めない、稽古法となる(例:「相手」や「自分の手元」を見ない/(小手先よりも)「体の位置」によって技がかかる 等)。
合気道は「争わない武道」とよく言われますが、争わないために「相手に合わせる」ばかりでは、自分自身の「絶対的な安定」は失われてしまいます。
相手に合わせるのではなく(かといって自分勝手にならず)、稽古を通じて自身の「絶対的な安定」を目指します。そして、「絶対的な安定」を目指す稽古のために、そこで用いる言葉(表現)や、それに伴う具体的な動作に、気を配る必要があるのです。
合気道は大先生によって創始されました。つまり、「合気道」=「大先生そのもの」だと言えます。現代では、残念ながら大先生の謦咳に接することは叶いません。だからこそ、大先生が遺されたお言葉(私の場合は多田先生からの又聞き)へ注意深く遡りながら、自分の稽古を見直し続ける必要があると思っています。
合気道を稽古するに当たっては、植芝盛平先生の道歌、道文を読み込み、ただ字句の解釈だけでなく、心身を通じた稽古実践において「合気」をより深く進み取るのが大事だと思っている。
(参考)合気道を「護身術」として稽古しない理由
当会では、合気道を「護身術」として稽古しません。
「護身」の辞書的な意味は次のようになります。
【護身(ごしん)】
身に加えられる危険からからだを守ること。
辞書的な意味だけを考えれば、合気道も「護身術」と言えそうです(※「走って危険から逃げる練習」と考えれば「ジョギング」でさえも一種の「護身術」です)。
私が「護身術の稽古」として考えるのは、次のようなものです。
(相手に)このように掴まれたら、(自分は)こうする
(相手に)このように組まれたら、(自分は)こう動く
(相手が)こう来たら、(自分は)こう返す
すでにお気づきかと思いますが、
「(相手に)~されたら(自分は)~する」という稽古法は、ここまでに見てきたように、受動的/相対的なものです。「絶対的な安定」を目指す、主体的/絶対的な稽古ではありません。
こうした考えに基づき、当会では、合気道を「護身術」としては稽古していません(注:決して、こうした稽古法自体を否定しているわけではありません。当会では、あくまでも別として捉えている、ということです)。
(本文終わり)
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