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【道場心得】人の技を批判しないこと

(1)「人の技を批判しない」とは?


①「道場心得」の紹介

当会では、「道場心得」のひとつとして、「人の技を批判しないこと」を掲げています(道場心得 - No.7)。今回は、この心得について考えていきます(本文の内容に関する文責は、全て筆者に帰します)。

なお、当会の「道場心得」・「⼀般作法・畳の上での注意点」は、私の師匠である多田宏先生(合気会本部師範, 九段)が掲げたものを、(ほぼそのまま)下敷きにしています。「人の技を批判しない」という心得は、多田先生の教えなのです(*1)。

ちなみに、ここでの「批判」には、「悪い点の指摘(悪評)」・「良い点の指摘(好評)」のどちらも、含まれます。一般的に「批判」というときには「悪評」をイメージしますが、「好評」も含まれる点には注意が必要です

【批判】
物事のいい点については正当に評価・顕彰する一方、欠陥だととらえられる面についても徹底的に指摘すること。[俗に単なる「揚げ足取り」の意にも用いられる]

新明解国語辞典(第八版)

②「人の技を批判しない」とは?(師匠の姿から学ぶ)

「道場心得」のような規範・規約の類は、得てして(実行力や実質的内容を伴わない)「お題目」となりがちです。ですが、多田先生の門下では、「人の技を批判しない」という態度は、「ごくごく当たり前のこと」として浸透しています。これには、師匠ご自身の姿勢が強く影響しています。

先生は道場においてたくさんのお話をされますが、先生の口から他人の技や巧拙に関する「批判*」を聞いたことはありません(*「〇〇は上手だ」といった「好評」も含む)。こうした先生の姿勢・態度が、門下生にも自然と浸透しています。

③「人の技を批判しないこと」は、高級武士の作法

「人の技を批判しないこと」は、多田先生の曾祖父である多田興善氏(弓術・射撃・馬術の名人, 対馬藩家老・多田外衛のご長男)の教えに由来します。つまりは、日本の伝統的な武道を育んだ、高級武士の教えだと考えられます。

 明治維新後、弓術、射撃、馬術の名人であった興善は東京に出て近衛騎兵将校となったが、身体をこわして退役し、旧制三高の弓術部師範となったのである。
 京都で過ごした間、父(筆者注:多田先生のお父上)は家伝の日置流竹林派蕃派弓術を曾祖父・興善から一日も欠かさず仕込まれた。曾祖父はこの孫を連れて武徳会の弓道場に通うことを心から喜び、楽しんでいたらしい。曾祖父から父に伝えられた侍の教えが、私(筆者注:多田先生)の武道観の基礎となっている。
 曾祖父は父に弓術を教えるに当たって二つのことを注意したという。

一、決して人の技を批判してはならない。
二、弓術に関する本を読んではいけない。

『合気道に活きる』
(多田宏, 2018, 日本武道館, p7「曾祖父の教え」より, 太字化は筆者による)

(2)なぜ、人の技を批判してはいけないのか?(前提)


<前提①>「他人の技を批判してもうまくならない」

これは、自由が丘道場の大先輩である内田樹先生(合気道凱風館を主宰)が、多田先生から言われた言葉です。ここで、内田先生がお書きになったエピソード(の一部)を引用させていただきます(注:内田先生から多田先生への問いかけから引用を始めます)。

「先生は他人の技を批判してはいけないとおっしゃいますが、他人の技の巧拙を論じることは稽古としてそれなりに有効なのではないのでしょうか」
 先生(筆者注:多田先生)はこのときもにっこり笑ってこう言われた。「内田君、他人の技をいくら批判しても、技はうまくならんよ。批判して上達するなら、俺だって、一日中他人の技を批判しているさ」

『月間秘伝(2011年1月号・特集◎合気道家 多田宏の教え 現代に活きる武道家を目指す)』(BABジャパン, 「内田樹が語る「多田先生のお言葉」」より, p36, 太字化は筆者による)

多田先生のおっしゃる通り、他人の技をどれだけ批判したとしても、自分の技がうまくなることはありません。ですが、「技がうまくならない(上達の役に立たない)」というだけであれば、「批判してはいけない」とまで(強く)戒める必要はありません。

しかし、多田先生の曾祖父である多田興善氏は、「決して人の技を批判してはならない」と、強くこれを戒められています。

なぜでしょうか?

次項では、多田先生の教えを手がかりに、その理由を考察していきます。

<前提②>「批判」と「分析」は異なる

はじめに、「批判」と「分析」とは異なることをお断りしておきます。

【分析】
複雑な現象・対象を単純な要素にいったん分解し、全体の構成の究明に役立てること。

新明解国語辞典(第八版)

術技の向上には「分析」が欠かせません。合気道であれば、先生や稽古相手の身体の使い方、力の方向などを分析・解読して、自身のそれと比較する過程(プロセス)を抜きにして上達することはありません。

この記事で取り上げる「批判」は、こうした「分析」とは異なります。「分析」が客観的な視点に立ち、細分化された要素にフォーカスするのに対して、「批判」は総論的で、(たいていは)主観が伴います。とはいえ、「批判」と「分析」との境界は曖昧です(※この点について深く論じるつもりもありません)。

この記事で、「(合気道において)人の技を批判する」と表現するときには、次のような「具体的な批判」を想像してください。

  • 「あの人は上手だ」「あの人は下手だ」

  • 「あの人の合気道はきれいだ」「あの人の技は固い」「あの人の技は痛い」「あの人は不器用だ」

  • 「あの人は小手返しは上手いけど、四方投げはまだまだだね」

(3)なぜ、人の技を批判してはいけないのか?(理由の考察)


(考察①)対象と対立的になる「癖」を付けないために

多田先生は指導にあたって、次のようなポイントを大切にされます。

  • 対立・対峙の世界を超えて、対象と同化的になる(対象と比較の世界に並び立たない)。

  • 対象に囚われた状態(執着が生じた状態)は、心身の自由が失われた、隙(スキ)のある状態。隙のない状態(絶対的な安定)であること。

このように考えていくと、「人の技を批判すること」は、上で挙げたポイントからは、かけ離れていく行為であることが分かります。

「人の技を批判する人の状態」は、次のようになります。

  • 「自分(または自分が考える正解)」と「相手」とを比較する状態(=「対立・対峙的な状態」)

  • 批判を向ける相手(対象)に囚われた状態(=「執着が生じた状態」)

(イメージ)他人の技を批判する人

「人の技を批判する」とき、その人の心は対象(相手・自分)に囚われています。つまり、隙だらけの状態と言えます(武道的にはアウト)。そして、「人の技を批判すること」が習慣となれば、隙だらけの状態を習慣化・内面化することになります。

したがって、対象に執着する癖(つまりは自ら隙を生む癖)を身に付けないためにも、「人の技を批判すること」は避けるべきである。そのように考えを進めることができます。

ちなみに、人の技を批判するのは「道場の外」だから、隙だらけでも構わないではないか、と思われるかもしれません。ですが、「人の技を批判すること(対象に執着すること)」が癖になると、その癖は必ず、「道場の中(つまりは稽古中)」にも顔を出します。

特に、初心の時にこうした心の使い方を「癖」として内面化してしまうと、それを後から修正することは、大変に難しくなります。だからこそ多田先生は、多くの門人が常に意識できるように、「人の技を批判しないこと」を「道場心得」に掲げたのだと思います。

およそ稽古で生じる問題のほぼ九割以上は、人、技に囚われるという心から生じている。また我々の日常の生活においても、「病にかかった時、どのような心でいたら良いか」という切実な問題に対しても、大きな示唆を与えるものである。人生で起こる諸問題を解決するのも、合気道の稽古も同じ道の上にある。

『合気道に活きる』(多田宏, 2018, 日本武道館, p178, 太字化は筆者による)

(考察②)「一回性」を大切にする、「芸術」としての合気道

【芸術】
一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人間・人生とは何かなどについて表現した人間の活動と、その作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など。

新明解国語辞典(第八版)

現代日本では、「芸術」という用語はこのような意味で使われます。ですが、江戸時代まで、「芸術」は主に「剣術」を意味していました。江戸期に著された剣術書である『天狗芸術論』(佚斎樗山)は、まさにこの意味で「芸術」という用語が遣われています。

多田先生はこの説明をされる中で、「まさに合気道も芸術である」と説かれることがあります。それは、「美しさを競う武道」という意味ではありません。合気道は、その瞬間・その場で技を創り出していくという点において、音楽や演劇などと同じ(一回性の)芸術だ、という意味だと考えられます。

 日本語で言う「芸術」は、もともと武術、主として剣術を意味していた。明治になって外国語のArtを「芸術」と訳したため、今日では音楽、絵画、彫刻作品等を芸術作品とし、武道を芸術ととらえる人は極めて少ない。
 だが、合気道、武道は芸術であり、その根底にあるものは、人間の生命活動に基づくことをしっかりと自覚すると、芸術とは心の望むところを心身一丸となって表現することならば、その稽古にあたっては気(豊富なエネルギー)、心(透明な心)、体(心の望むままに動く体)の充実していることが重要であろう。

『合気道に活きる』(多田宏, 2018, 日本武道館, pp137-138)

合気道の稽古は形(かた)ではありません。同じ技の稽古(例えば、正面打ち・一教)を繰り返したとしても、一度として「前と全く同じ」ということはありえません。まさに音楽や演劇と同じような、「一回性の芸術」なのです(「一期一会の武道」とも言えそうです)

合気道の稽古は形ではない。植芝盛平先生独特の修錬によって磨き上げられた「気の流れの錬磨」という、技に生命を吹き込んだ「積極的な打ち込み稽古」とも言うべき稽古法である。それだけに常に変化し、創造される。

『合気道に活きる』(多田宏, 2018, 日本武道館, p145, 太字化は筆者による)

「一回性の芸術(または一期一会の武道)」として合気道を見ていくと、「人の技を批判すること」は、稽古の妨げでしかありません。

なぜなら、稽古相手の技を批判することによって、批判している当人の脳内では、相手に対する批判(固定観念・決めつけ)が定着してしまうからです(例:あの人の技は固い, あの人は下手だ)。

さらに、「人の技を批判すること」が習慣となれば、「稽古相手に対する批判的な考え」が脳内で反復され、強化されてしまいます。

このように、相手のことを決めつけてかかった状態(特に、相手に批判的な気持ちを持った状態)では、素直な気持ちで(一回きりの)稽古に入ることは難しいと思います。そうした状態での稽古では、稽古相手の中に、(ご自分が考える)「批判的な部分や欠点を再確認する作業」に終止する可能性すらあります

せっかく、「常に変化し、創造される」ような武道(芸術)の稽古をしているのに、このような状態は大変にもったいない。

「一回性の芸術(または一期一会の武道)」として合気道の稽古を捉えるならば、素直な気持ち(透明な心)で稽古に望む必要があります。そのためにも、稽古相手に対する「決めつけ・固定観念」を生み、強化するような「人の技を批判する」という行為は、戒められるべき性質のものだと思います。

とはいえ、稽古を続けていれば、どうしても合わない相手は出てきます。そうした相手との稽古に、素直な気持ち(透明な心)で臨むことは難しいというのも事実です(※もちろん、努力は必要です)。

そうした相手に対して批判を続けても、その相手が自分の望むように変化することはありえません。それどころか、「相手を批判すること」をご自分が習慣化してしまう危険性が高くなります。そうした状況に陥るくらいなら、そうした相手とは(可能であれば)組まないという選択を採るほうが良さそうです。

(考察③)指導する立場にある者としての「自戒」

多田先生は(ご本人が望む・望まないとに関わらず)長く指導的な立場におられます。「人の技を批判しない」という心得には、先生の、指導する者としての「自戒」が込められているように感じます(注:あくまでも私の推察です)。

指導的な立場にある人の発言は、その稽古場において圧倒的な影響力を持ちます。そうした立場にある人が、一度でも「〇〇は◇◇だ(例:あの人の技は固い, あの人はダメだ)」という批判(評価)を口にすれば、その場にいる全員の脳内に、「〇〇は◇◇だ」という先入観が刷り込まれます(そして、一度刷り込まれた先入観を、消したり、書き換えたりすることは、大変に困難です)。

[考察②]で書いたように、合気道は「一回性(一期一会)」を大切にする武道(芸術)です。指導的な立場にある人によって刷り込まれた先入観は、批判された当人にとっても、その周囲にとっても、そうした武道(芸術)の稽古においては、妨げ以外の何物でもありません。

私自身、自分の道場を主宰する立場となったことで、言葉の大切さを痛感しています(この記事も、「人の技を批判しないこと」という「道場心得」を再確認するつもりで書いています)。

ここまで、「なぜ、人の技を批判してはいけないのか?」という疑問に対して、自分なりに考察を進めてきました。当会で稽古をする皆さんにも、この「道場心得」を改めて心に刻んでいただきたいと思います(自戒を込めて…)。

なお、「なぜ、人の技を批判してはいけないのか?」という問いに対して、内田樹先生も(私とは異なる視点で)考察をされています。興味のある方は、以下をご参照ください。

  • 『月間秘伝(2011年1月号・特集◎合気道家 多田宏の教え 現代に活きる武道家を目指す)』(BABジャパン, 「内田樹が語る「多田先生のお言葉」」, pp34-40)

  • 『修業論』(内田樹, 2013, 光文社新書, 「減点法のマインドセットを採用すべきでない理由」, pp79-81)

(4)「人の技を批判すること」は、当たり前の文化・慣習か?


① 外に出て気付いたこと

東京にて多田先生の下で稽古をする間、「人の技を批判しないこと」を、私は「当たり前のこと」として捉えていました。ですが、岐阜へのUターンに伴い、東京での稽古環境から外に出たことで、これが「(全く)当たり前のことではない」という事実に気づかされました。

最初に驚いたのは、私が道場を開いた直後に体験稽古に来られた方(有段者)の発言でした。その方は私との稽古を終えて、「あなたの技は素晴らしい。四段と五段の間といったところでしょうか」とおっしゃいました。

当時、私は三段でしたが、その言葉を聞いて嬉しく思うどころか、「なぜこの人はこんなコト(批判)を言うのだろう??」と、とても困惑したことを覚えています(その方に悪意など一切ないと承知しながらも、有り体に言えば「失礼だな」とさえ感じました。当時の私にとっては、それほどのカルチャー・ショックだったのです)。

また、岐阜で長く合気道を稽古されてきた方からは、「人の技を批判しないという道場心得に感銘を受けた」と言われました。その方が稽古していた環境では、「人の技を批判する」言葉が、当たり前のように飛び交っていたそうです。

こうした経験を経て、私が「当たり前のこと」だと思っていた「人の技を批判しない」という心得は、実は「当たり前のものではない」という事実に(悲しい気持ちとともに)気付かされたのでした。

考えてみれば、「人の技を批判しないこと」が、武道界における当然の文化(不文律)であるならば、多田興善氏(多田先生の曾祖父)が、「決して人の技を批判してはならない」と、わざわざ訓戒する必要はありません。

同氏は、武道に励む人の多くが、(当然のように)人の技を批判する姿を見てきたからこそ、あえて言葉にして訓戒されたのかもしれません。

② 大先輩も経験した、「人の技を批判する」武道の慣習

(同門の大先輩である)内田樹先生も、同種の経験をされています。参考までに、内田先生が経験されたエピソードを引用させていただきます。

 仕事で住居を関西に移し、多田先生のご指導を直接受ける機会が少なくなったので、この機会に他芸を学んでみようと思って、二種類の武術を学ぶことになった。驚いたことに、この二つの武術では稽古時間の半分が「技の巧拙を論じる」ことに費やされていた。さまざまな「着眼点」がリスト化され、海外旅行に行く前に「チェックリスト」を参照しながら鞄にものを詰めるように、自分の動きを調整し、他人の動きの可否を言う。
 だから、この武術の大会では、観戦の人々が「総評論家」となって、演武者の巧拙を声高で論じ合う。あるとき、範士八段の方の演武を私のかたわらにいた同門の後輩が「あれでは駄目だ」と吐き捨てるように論評したことがあった。

『月間秘伝(2011年1月号・特集◎合気道家 多田宏の教え 現代に活きる武道家を目指す)』(BABジャパン, 「内田樹が語る「多田先生のお言葉」」より, p36)

合気道に限らず、武術・武道の世界では「人の技を批判すること」が、当たり前の文化・慣習なのかもしれません(よそはよそ、うちはうち、当会は当会、です)。

(本文終わり)


【参考・引用文献】

(*1)多田先生の「道場心得」は、こちらをご覧ください。




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