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10月12日

 着替えを済ませ、マンションを出たところでスマートフォンが振動した。一通のメール。
――ごめんなさい。私、つきあっている人がいるの
 戸惑い、怒り、失意。そして再び戸惑い。わずか一行の文章が正彦の感情を掻き乱す。メッセージは事実なのだろう。彼女には恋人がいる。ならばどうして会う約束をしたのだ。
 営業先の担当として知り合ったのは一年前。互いに学生時代ラクロスをしていたことを知ったのが三か月前。意気投合し、思い切ってデートに誘ったのが四日前。
 二人だけの応接室で、彼女は手帳を開き少し難しい顔をした。
「10月12日ですよね。……はい、なんとか」
「いや、あの、無理にとは言いませんので」相手の声色が思いのほか明るくないことに、正彦はしり込みする。
「ううん。残業しないで仕事を切り上げるので大丈夫です」そう答え、今度はにっこりといつもの笑みを浮かべた。
「よかった」正彦は来客ソファに背をもたせる。
 正彦は厨房機器メーカーの営業で、彼女の会社は全国規模の受託給食会社だ。最新のポテトスライサーを一括で導入してもらってから頻繁に訪問するようになった。社会人になって五年。正彦にとって最大の取引だった。
「12日ってアメリカだったらコロンブス・デイですね。日本も休みだったらよかったのに」
「コロンブス・デイ?」
「クリストファー・コロンブスが新大陸を発見した日です。アメリカでは祝日なんですよ」
「へえ、そうなんですね。でも、子どもの頃はコロンブスって偉人だと信じてたけど、先住民に対する悪行を知ってからは尊敬できなくなったな。アメリカでは評価されてるんですかね」
「私もよくは知らないですけど、大学の卒業旅行で行ったとき、ちょうどその日だったんです。大通りでパレードがあったり、オープンカーから市長が手を振ってたりしてお祭りムードでしたよ」
 内ポケットの業務用携帯電話が鳴る。次の訪問先からだ。腕時計を見るとアポの時間が近づいていた。正彦は慌てて立ち上がる。
「金曜日、楽しみにしています」と笑って彼女は一礼した。
 彼女とは波長が合った。ラクロスだけじゃない。作家や映画監督の好みもよく似ていて、バーが好きなのも同じだった。いや、そういうことじゃない。彼女と話すのが純粋に楽しかったのだ。
 予定がなくなり、正彦は半ば放心状態で街をさまよった。次回からどんな顔をして彼女の会社を訪問したらいいのだ。
 何度か訪れたことがある書店の、青いドアを開ける。目当ての本があるわけではない。財布の中身を軽くして、沈み込んだ感情を少しでも浮上させたかった。
 所狭しと並べられる本を端から眺めていく。この後イベントがあるらしく、店主は忙しそうに準備している。都合がいい。今は人と話す気になれない。
 一冊の本が目に留まる。「文明を変えた植物たち コロンブスが遺した種子」。正彦は中身をめくることもなく、それを購入した。
 彼女と来ることも考えていたバーに入り、ギムレットを注文する。カウンターの奥に居並ぶボトルはどこか本屋と似ていて安心する。まだ早い時間ということもあり、お客はまばらだ。正彦は買ったばかりの本を開く。
 コロンブスの目的は金や香辛料であったが、残念ながら求めるものはほとんど見つからなかった。それはそうだ。そこはジパングでもインドもなかったのだから。だが、彼は最後までその事実を知ることはなかった。
 しかしながら、新大陸到着によって金よりもはるかに価値が高いものが西洋に伝わることになる。じゃがいもだ。作育が容易で収穫量も多いじゃがいもは、常に餓死と隣り合わせであった平民たちの生活を一変させた。何千年、何万年続いてきた食糧危機から人類が解放されたのだ。じゃがいもは瞬く間に世界へ伝播し、日本の食卓にも取り入れられた。現代では年間三十万トンも消費されている。

 ピンタ号のホナス・サンダサは先遣隊を命じられた。小舟に移り、ソリス副長を含む四名が陸に向かう。丘には肌の色が異なる人間が数十名待っている。気が進まない。歓迎されているのか敵対視されているのかも分からないのだ。着いた矢先、見せしめとして血祭りにあげられるかもしれない。自分はただの水夫で、航海図どころか文字だってろくに読めない。体力を買われて雇われただけだ。だが、命令には逆らえない。
 海面に手を触れてみる。凍えるほど冷たくはない。だが、泳いでも逃げる先がない。ここは未開の地だ。味方は甲板にしかいない。恐怖より、得体のしれない不気味さのほうが強かった。振り返ると、ピンソン船長が腕を組みこちらを睨むように見つめていた。自分の役目は船を漕ぐこと、そして同乗のソリス副長を守ること。だが、副長は極度の緊張で蝋人形のように固まっている。こんな様子では交渉は失敗に終わるだろう。
 ホナスは覚悟を決める。陸に上がったら一番に笑顔で挨拶をしよう。率先して誠意を伝えるのだ。先のことは分からない。だが、ひとつの行動が、誰かの運命を変えるかもしれないのだから。

 正彦は二杯目にマティーニを頼んだ。読みかけの本を閉じ、彼女に電話をかける。出てくれないかもしれない。いや、出たとして何を話せばいいというのだ。喉が渇き、置かれたカクテルを口にする。
 そうだ。コロンブスの話をしよう。
 僕たちはつながっている。視認できないほど細い線かもしれないけれど、コロンブスの時代から綴られる物語の中に僕たちは確かに存在する。そこから先のことは分からない。だが、この一本の電話が僕たちの運命を変えるかもしれないのだ。
 呼び出し音が止まる。
 はるか彼方から彼女の声が聞こえた。

【参考文献】
 ・酒井伸雄『文明を変えた植物たち コロンブスが遺した種子』NHKブックス

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