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天の川が消える夜

「ただいま」と告げ、正彦はキャリーバッグを降ろす。飛行機の中で何十歳も齢をとってしまったかのように体が重い。汗もずいぶんかいた。
「お疲れさま」リビングから伊織が小走りで迎えにきた。彼女の嬉しそうな笑顔を見ると、疲れもいくらかは忘れられる。
「お腹すいた? 今、準備してるから先に着替えてて。あっ、荷物はそのままでいいからね。あとで私が片づけておく」
 ありがとう、と正彦は感謝する。今は洗濯ものを取り出す元気さえ残っていない。
 伊織と結婚し三年。
 昨年末、中古ではあるもののほぼ理想に適ったマンションを購入した。荷解きを終え家具も一通りそろった段階で、転勤の辞令が出た。逃げられなくなったところで「飛ばす」というウワサは本当だったのだ。
 伊織は自身の仕事を辞めてついてくると言ったが、正彦はとめた。口約束ではあるが、二年経ったら本社に戻すと上司から言われている。一時的な転勤のために彼女のキャリアを無駄にする必要はない。それに、買ったばかりのマンションを他人に貸し出したくもなかった。
 部屋着に着替え、リビングに向かう。
 単身赴任は、学生時代の気軽な独り暮らしとは勝手が違った。さまざまなことが重なり心と体がパンクしてしまいそうだった。四月の異動から三か月が経ち、ようやくのことで一時帰宅することができた。
「はい、お待たせ」伊織が小皿と透明の器を食卓に並べた。みょうが、大葉、生姜、つゆ。そして、氷水にたゆたう白い麺。
「なんで素麺?」
「えっ?」伊織が不思議そうな顔をする。
「確かにあんまり食欲ないってメールはしたけどさ、せっかく帰ってきたんだから、もうちょっと豪華なものが食べたかったんだけど」つい不満をこぼしてしまう。ケンカなんてしたくないのに。
「ごめんなさい。今日は七夕だったから」
「ん?」今度は正彦が不思議がる番だった。七夕と素麺の間の因果関係が見えない。
「七夕の日って素麺を食べるものでしょ?」
「なんで?」
「ええ⁉ 毎年七夕の日は素麺を出してたよ。もしかして何も考えずに食べてたの?」伊織が目を丸くする。
 去年、一昨年の記憶を遡ろうとしたが、疲労のせいもあり、うまく思い出せない。
「正月にお節を食べたり、節分に齢の数だけ豆を食べるのと一緒で、七夕の日は素麺って決まってるじゃない。どこの家庭もみんなそうだったよ。正彦のとこは違ったの?」
「そんな話、初めて聞いたよ」
「ウソ!」
 彼女は宮城県で生まれ育った。あちらでは七夕に素麺は当然の慣習だったそうだ。
「でも、なんで素麺なんだろう?」
「私も由来は知らないけど。……あっ、素麺ってなんとなく天の川っぽいよね。だからじゃない?」
「っぽいかな?」と正彦は苦笑する。
「そうよ、きっとそこからきてるのよ」彼女は根拠なくそう断言する。
「まあ、とにかく食べようか。麺が伸びちゃうよ」
 それぞれ手を合わせ、いただきます、をしてから素麺をすする。薬味が爽やかで、胃の中にするりと入っていく。ハンバーグやから揚げでなくて良かったかもしれない。あっという間に器はカラになった。
「おかわりいる? 追加で茹でてもいいけど」
「いや、いい。お腹いっぱいだよ。ありがとう」
「じゃあ、少し休んだら後で上に行ってみない?」
「上?」
「この前、管理員さんに教えてもらったんだけど、十階に共用のバルコニーがあるらしいの。お盆の花火大会とかもそこからよく見えるんだって」
 へえ、と正彦は相槌を打つ。初めて知った。
「せっかく七夕なんだから星を見ようよ」
「こんな市街地で見えるかな?」
「きっと見えるわよ。それに、さっき私たちが天の川を食べたから、織姫と彦星は自由に会えるようになってるはずよ」
 織姫と彦星。ベガとアルタイル。天の川が消えた夜空。正彦はその光景を想像し、二人で一緒に笑いあった。

                           了

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