上村裕香『ほくほくおいも党』 雑感その10 (終)
◆Web版は、卒業制作版とは別方向の小説に変容してしまった
『ほくほくおいも党』には「卒業制作版」(単行本)と、改稿された「小学館STORY BOX版」(Web版)があります。
この「雑感」は「卒業制作版」をもとにしています。
卒業制作版は2024年2月に京都芸術大学卒業制作展においていわゆる同人誌として単行本で公開・頒布されたものです。
Web版は、同単行本をもとに大幅に加筆・改稿され、商業誌としてWeb上に公開されたものです。
Web版は、構成の入れ替えや新エピソードの追加はあるものの、卒業制作版がボリュームアップされたものになるだろうと思っていたのですが、Web版の最終回までを読み終えた結果、この2つの版は方向性が異なる小説として取り扱ったほうがいいほどに変容していると感じました。
どこが変容したのかは最後に書くとして、まずは、引き続き卒業制作版についての感想です。
◆「ほくほくおいも党」という政党は小説において必要だったか
団体「ほくほくおいも党」は、共産党員二世たちの癒し懇話会を行う一方で選挙活動までも行っている設定となっている。
国政選挙に立候補するには莫大な供託金(参院選地方区で300万ん、比例区で600万)が必要だ。「ほくほくおいも党」はそれを集める力があるとは到底思えない。
これが設定としても無理がありすぎる(ラノベならいざしらず)ことは読者なら誰でも気づくことだ。
作者はなぜこういう設定にしたのか。
こういう非現実的な設定を故意に持ち込むことによって、この小説があくまでフィクションであることを強調したかったのかもしれない。
もし、ほくほくおいも党がたんなるコミュニティサークルであった場合、そういうサークルは現実的に存在しうる話であって、この小説全体のリアリティ、真実性をより強いものにする。
しかし、作者にとって、この小説はあくまで非現実・別世界のものとしておきたかったのではないか。
なぜ非現実・別世界のものにしかたかったのか。
この小説の結末は、親子の邂逅という面では明るい兆しがみえるのだが、一方の千秋の今後の党活動のという面では読者の想像に任せるものとなっている。
しかし、作者としては、日本共産党をダシに使った小説であるのに、日本共産党のあり様を十分に描き切れなかったひけめを感じていたのかもしれない。そのため、この小説内で登場する日本共産党は、現実の党とは違いますよ、現実の政治とは関係ないものですよ、ほら、「ほくほくおいも党」も政治的にはありえない別世界線の設定にしてあるでしょ、という計算があったように思えたのだが。深読みのしすぎかもしれない。
(補注)
Web版では選挙立候補の設定は削られ、自助サークル活動だけを行っている団体という設定に変更されている。
この設定変更自体は納得できるものだが、作者は、別世界線設定という逃げ道をふさいでしまったわけだ。
◆個人対組織という対立構造
選挙運動最終日の父と兄と千秋、そして浅間くんも巻き込んでのクライマックス(その内容は原作を読んでください)があった日の翌日――。
落ち着いた空気の流れる県営住宅の一室で父は千秋の天然外ハネ毛をカットしている。
この小説最後のシーンでの父と千秋との会話。
父が語った言葉「生き方がよかと思うから勧めた。それだけじゃなか?」
これは、父が離党したからでも専従をやめたから発せられたものでもない。
個人でもあり、かつ同時に、組織の人でもある人の言葉である。
まあ、これがふつうの日本共産党にとってのあるべき勧誘であって、これがよくある勧誘で、これが普通なのだ。
しかし、読者はこのシーンが、まるで、父が党員としての「公式」の言葉を引っ込めて、「個人」の言葉を前面に出した、と解釈してしまうはずだ。
それは、小説『ほくほくおいも党』が全体として組織と個人の対立構造を小説の主軸に据えているためで、そう読ませるような叙述となっているからである。
とりわけ父の選挙活動だけが書かれているため、共産党の姿が選挙一辺倒の一面だけのものとして読者に受け取られ、選挙に立候補する組織と有権者であるわれわれ個人という構図は、そのまま父と千秋との構図に重なる。
たとえば学校給食無料化運動やオズプレイ反対闘争などのような、多くの個人の小さな願いや要求を積み上げていくような各種の要求実現運動において、父がさまざまな人たちと語り合い、悩みつつ試行錯誤しながら共同で闘いをすすめていく姿は描かれていない。
運動が煮詰まっていかんともしがたくなった時、指導者の人間性が現れてくるものである。そしてその人間性は人間集団(組織)の中で露顕するのである。
そこまで描ききってはじめて、父の「生き方がよかと思うから勧めた。それだけじゃなか?」の本心が見えてくるのではないだろうか。
選挙運動最終日の父と兄と千秋とのぶつかり合いが、父にあの言葉を吐かせたのだろうけれど、ぶつかり合いはあくまできっかけに過ぎないと思う。
なお、小説『ほくほくおいも党』卒業制作版の、組織と個人についての立ち位置が、2023年2月以降の日本共産党に係る除名処分に関連してのSNSでの一部騒動と共振してしまい、それに巻き込まれたことがWeb版における変容に大きな影響を与えていると思うが、それは後述。
(補注)
Web版第3話では、千秋の父・豊田の働く(党活動の)話が描かれている。
「共政党」の東日本大震災ボランティア支援として東北の震災地域で活動する豊田と、ボランティアの青年・岩崎(彼はその後「共政党」に入党し現在は豊田が副委員長をしている党県委員会で勤務している)との二人を中心とした物語だ。
そこでは、豊田は気さくで心やさしいボランティア指導者として描かれ、千秋に対するような傍若無人ぶりは一切見られない。
ただ、惜しむらくは、指導する豊田と指導される青年・岩崎との一対一との関係のストーリーとなっていて、党員・豊田が多くの人々と力を合わせて運動に取り組む姿の描写はない。
作者としては、卒業制作版で父・豊田の酷い一面を押し出しすぎたので、豊田の別の側面をWeb版で書き加えたのだと思われるが、それが十分に成功したとはいえないと思う。
この第3話のストーリーが、千秋に入党勧誘した時の豊田の態度と、小説最後のシーンの父の言葉とを結びつける解になっていないからである。
◆奇天烈な父と、まじめでやさしくよくできた子である千秋
千秋は、父にたいして、一定の距離をおきつつも突き放しはしない。
お父さんに勧められて民青に入り、まじめに学習会や班会には参加していたようだし、お父さんに言われて18歳の誕生日にのこのこと県委員会事務所に行く(それが入党工作だと気づかないはずはないのに)くらい、お父さんのことをよく聞く、お父さん思いの子なのである。
もし民青や共産党がイヤなら父親に言われても無視するはずなのに、千秋は素直に従うのである。
民青の生あたたかな雰囲気は肌に合わないようだが、生理的なレベルで嫌っているほどでもなさそうである。
まあお父さんに言われているし、参加しておこうかな、ということなのかもしれない。それでもスゴいことである。お父さんに反発して、兄のように民青・共産党ギライになったというわけでもなさそうだ。
ということは、娘に反発されるほど奇天烈なお父さんではなかったということなのか。
母にたいしても、定期的に会っているようだし、言い争うくらいには信頼関係も崩壊していないようである。
兄にたいしても、静かに見守っているようで、なにかあれば助けてあげたいと思っている。そうでなければ、機会をみつけて兄の部屋に忍び込んでPCをのぞき見したりはしない。
かように、千秋は家族思いのやさしい子なのである。よくできた子である。こんな子に育て上げた父や母もそれなりの人なのだろうと思う。小説内ではさんざんな書かれ方をしているが、書かれていない部分では、案外まともな人なのではないか。
◆お父さんは、共産党員だから奇天烈なのか、共産党員であろうとなかろうと奇天烈な人なのか
じゃあなんでこの小説は、こんなに父を奇天烈人物として描くのだろうか。日本共産党が父をこんな人間にしてしまった――と思わせるような構成となっていて、読者にそうではないかと感じさせはするものの、それを明示するような文章はどこにも出てこない。
そこは、読者の受け取りに任せられていて、この微妙なバランスの上に成立している小説と言える。やるなと思った。
私は「雑感その6」で、父による千秋の入党勧誘シーンには、妙なリアリティがあるけど、ちょっと考えればああいう勧誘は実際にはありえないだろうと書いた。
その時は、フィクションだし、そこにリアリティを求めるのも野暮なので、いったんつっこむのを保留にしていた。
で、実際にはこうだったのではないか、と思いついたことを書いてみよう。単なる私の創作なのでそう思って読むように。
あの乱暴なおしつけ式勧誘をおこなったのは、実際には、作者・上村裕香の父ではなかった。
あの勧誘を行ったのは作者自身ではないか。
あのなまなましさと、会話の間合いのリアリティさは、現場を実際に体験せずになかなか想像で書けるものではない。
じゃあ、作者は誰を勧誘していたのか?
それは、あの浅間くん(に相当する者)であるに違いない。
作者は浅間くんをちょっとうらやましく思っている。
浅間くんはごく自然に「共産党を支持してるよ」と作者に言う。浅間くんの母親が共産党シンパだったので、浅間くんはある程度共産党のことを知っていて、共産党の主張や政策に賛成している。
いわゆる「自走式自然成長型」(「雑感その5」参照)になりそうなタイプの子だ。
浅間くんは親の影響をある程度受けることにコンプレックスを抱いてはいないようで、作者の問いに「だれしも親の影響を受けるのだから」と、特段気にしていない風で、飄々としている(「雑感その9」参照)。
作者にとって、そういう浅間くんは不思議な存在でもあるし、なんだか悔しい存在でもあるはずだ。
しかも、共産党の政策をそれなりに知っていて、支持・投票まですると作者に言ってくるくせに、民青にも入ってないのだ。
ここらでいっちょ浅間くんを民青に入れて、私の苦しみをオマエも味わえ。いや、私の悩みを聞いて、何とかしてくれないかな、共産党のことも支持してるくらいだからイロハのイから説明せんでもわかっるだろうから、わたしがそんな説明しても恥ずかしいだけだし…
とまあいろいろな感情が混ざり合った結果、
「はよ書いて。いまから晩ご飯、ハンバーグつくってあげる」
「……書かないとだめ?」
「ココ。あーさーま、って書けばオワリ、ね」
「なんで上村さんは僕を民青に入れたいの?」
「あーさーま。はよ書いて」
結局、浅間くんはすんなり民青に加盟してくれたのだけど、その後の民青の班会では、作者は、自分の強引な加盟工作に引け目を感じ、浅間くんから距離をとってしまう。
で、半年経った卒業式の日――
「あの時、裕ちゃんがなぜぼくを民青に入れようと思ったのか、ちゃんと言ってほしかったな」
「えっ?えーとぉお…。…お!お、おいも!…じゃなくて…。そう、ほくほく!ほくほくした生き方!…おいもじゃなくて、ほくほくしてほしかっただけなんだからね!」
…
…
が実際のところではあるまいか。「ツンデレキャラにするんじゃねえよ」と言われそうだ。
◆ふたたび浅間くんについて
小説『ほくほくおいも党』は、先にも書いたけれど、その結末は、親子の邂逅という面では明るい兆しがみえるのだが、一方の千秋の今後の党活動のという面では読者の想像に任せるものとなっている。
この私の評価も、ある人にとっては作者に甘すぎると思うかもしれない。
日本共産党の一部に現れた粗暴な官僚主義がまるで党全体にはびこるかのような描写で、最後のシーンでの千秋の党活動にたいする態度表明はそれへの同調を読者に求め、読者に誤った共産党像を喧伝する作家に転落しつつあるのではないか…と評する人がいても不思議ではない。
ただ、私としては、共産党自身の自己再生能力を少し垣間見れるところがあって、一概に共産党攻撃小説と断じてしまうのはもったいないと思っているのだ。
「雑感その1」で、私は「共産党員の人も…共産党員や二世たちのこころ模様が本当にうまく描かれているので、ちょっと泣いちゃうかもしれないが安心して読んでほしい」と書いたのは、「一概に共産党攻撃小説と断じてしまうのはもったいない」を含んでのものだ。
この文章に見られるような、千秋の浅間くんへの感情は、他の箇所でもたびたび描かれていて、そこは「雑感その7」や「雑感その9」でも書いてきたところだ。
そして、小説最後のシーンの冒頭で、
となる。
最後のシーンでの千秋の今後の党活動にたいする態度表明は、これまでの父による強引な「おしつけ式直系尊属型」をいったん入党前のゼロ状態に戻すもので、日本共産党への縁切り宣言ではないだろう、と私は思う。
なによりも、千秋はこれから浅間くんといっしょに投票に行くのである。
千秋にとって、浅間くんは不思議な存在でもあるし悔しい存在でもある。
それは当日の投票だけでは終わらず、その後も、共産党のことも含め何かしら、浅間くんから影響を受け、そして得るものがあるはずである。
私は、そこに、「ちょっとだけ」ではあるけれど、千秋の今後の党活動の可能性をみる。浅間くんのような飄々としたタイプは、結構、官僚主義的指導に負けない粘り強さを発揮するものなので、党の自己再生能力を担ってくれそうな彼にひそかに期待しているのだ。
ただ、作者が小説のなかで浅間くんをどう位置づけようとしているのかはよく分からない。私が期待するようなものではおそらくないだろうし、単にサブキャラとして登場させているだけかもしれない。
◆お父さんは振り向いてくれたか
先ほども引用した個所。
選挙運動最終日の父と兄と千秋、そして浅間くんも巻き込んでのクライマックスで、父は駅前での街頭演説中におおぜいの聴衆のいる前で演台を降りた。
父・豊田のこの行動は、ふつうなら批判されるものであろう。街頭演説が終わってからやってくれということだ。
まあ、豊田のそれまでの直情径行気味の性格がこの行動をとらせたと思えなくもないので、不自然には感じられず、そこはこの小説の上手なところではある。
「雑感その1」で、私は「親と子の関係という普遍的なテーマが、徐々に浮き彫りになっていくのがわかる。その舞台装置が共産党活動家の家庭というわけだ」と書いた。
その点では、この小説は成功していると言える。
(ただ、そのストーリーを語るために、日本共産党をダシに使い、かつ、悪しざまに受け取られても仕方がないように描いたけれど。)
最後に。
意地悪な内容の本を書いたら、お父さんは「わたし」に振り向いてくれるかな?は成功したのだろうか?
作者のお父さんはどんな反応をしたのか――「その後」を期待したい。
*『ほくほくおいも党』(卒業制作版)の感想はここまで。
◆Web版における変容について
〇小説『ほくほくおいも党』卒業制作版の、組織と個人を対立するものとしてとらえる立ち位置が、2023年2月以降の日本共産党に係る除名処分に関連してのSNSでの一部騒動と共振してしまい、それに巻き込まれたことがWeb版における変容に大きな影響を与えている。
人間性に欠けた組織によって個人が排除されたという論調の波に乗ってしまった。そして小説がその波長に合うように改稿されていったように思われる。
ただ、それらの波に乗ろうとした結果、主人公・千秋ら高校生たちが生活したり、父が働いたりする具体的な世界とは接点の感じられない・乖離した抽象的な別の世界で組織がうごめいているという印象を強めただけになっていないだろうか。
卒業制作版でもその傾向はあったがなんとかリアルとの均衡をギリギリくずさないでいたが、Web版では均衡がくずれてしまった。その均衡が『ほくほくおいも党』の良さと私は思っていたのだが。
〇卒業制作版では、奇天烈人物は父だけであったが、Web版では、選挙の立会演説会で相手候補者の学歴を侮蔑する者、子が結婚相手を紹介しに来たそのその場で子とその相手に入党を勧める者、小演説会で質問を発した参加者に対して質問者をやりこめ逃げ場のないまで追い込み逆質問責めをする者、少しでも党の方針と異なる意見を述べた人に瞬間激怒する上級機関盲信者…など、トンデモ人物がこれでもかというほどに登場する。
そのため、本来の「親と子」のテーマが片隅に追いやられ霞んでしまい、小説が醜悪人物列伝のごとくなってしまった。
たしかにそういう人物はいるかもしれない、いることも確かだろう。しかし、なぜ彼らがそういう行動をとるに至ったのかを丁寧に描かないと、それは作者のストーリー展開に都合のよいただのマリオネットでしかない。
卒業制作版にあったリアリティは破壊されてしまった。
それは、模範党員の座談会と同じでリアルさがなくなってしまうのである。
〇私にとって卒業制作版の最重要人物である浅間くんは、Web版では、どうなったか。
卒業制作版では、私がこの「雑感」でるる書いてきたように、千秋が浅間くんを意識した描写となっている。
しかし、Web版では、千秋の浅間くんへの思いにかかわるすばらしい描写はほぼすべて削られ、逆に、浅間くんが千秋に気があるような描写にとって替わられた。
そのため、小説最終シーンでの、千秋と浅間くんがふたりで投票に行くことに込められた(と私が思う)意味が消失してしまい、結果、最後のシーンでの千秋の今後の党活動の可能性は、卒業制作版とWeb版では真逆となってしまうのだ。
◆つけたし…ありえない設定について
校正する人が共産党に詳しくないと見落とすかもしれないので老婆心から書いておきます。
・県議会支部で副委員長(父は県議会議員でもないのになぜ県議会支部なのかな。県委員会と言いたくないなら「県支部連合会」とでもしておこう)
・共産党県副委員長である父より「偉い人」が民青同盟県委員長と書かれている(おちついて考えよう)
・サッカーグラウンドでの民青イベントにおける共産党候補者の演説はありえるが、そこになぜか対立候補が呼ばれて屋外での即席の討論会が実施されている(新聞社などが主催する立候補者どうしの討論会はあるけどね)
・投票日当日に共産党県副委員長が自宅で娘に散髪(投票日は投票動員の電話かけやら指示出しやらで自宅でゆっくりする余裕はないよ。作者もご存じだろうけど、やはりこの設定はなんとかしてほしい)
おしまい
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