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上村裕香『ほくほくおいも党』 雑感その7

『ほくほくおいも党』には「卒業制作版」(単行本)と、改稿された「小学館STORY BOX版」(Web版)があります。
この「雑感」は「卒業制作版」をもとにしています。

『ほくほくおいも党』(卒業制作版)

前回は、『ほくほくおいも党』の主人公・千秋が「おしつけ式外部注入・直系尊属型」メソッドによって入党したため、活動家二世に共通する悩みに加え、親子関係が原因の特別の悩みを抱えることになった、と書いた。

今回は、まず、その「活動家二世に共通する悩み」について他の文献を参考に考えてみる。続いて、「割り切り」や「千秋の同級生・浅間くん」について書いていく。

◆活動家二世に共通する悩み

「外部注入・直系尊属型」メソッドによって入党した子を書いたものに、北村いづみ「『党の子』『アカの子』の人生中間レポート」(『文化評論』1988.3月臨時増刊号。日本共産党創立65周年記念文芸作品募集の「手記・記録」部門入選)がある。
ほくほくしてない直球ど真ん中のタイトルだけど中身はほくほくしている。
こちらは親子関係が良好な環境下での実話である。

この手記の作者・北村も、活動家二世なら誰もが通るであろう悩みに陥る。そしてそれを乗り越えていくさまを書いている。
二世の成長のあり方として好ましいもののひとつと共産党が考えているから入選したのだろう。「自主性尊重式直系尊属型」の好例なので、長いけど引用しておこう。

北村は、高校時代から民青で活動していたが、大学1年から苦しみはじめる。

親が共産党員だから共産党の言っていることは正しいと思うのであって、本当は何もわかっていないのではないか…。
…いつも人の顔色ばかり気にして心配をかけぬよう、喜ばれるようにと生きてきた、今ここですんなり入党すれば、この先もずっと親の言うなり…。
…やり場のない自問自答を繰り返すうちに、悪い方悪い方への考え、ついには人間不信に陥っていった……。

北村いづみ「『党の子』『アカの子』の人生中間レポート」(『文化評論』1988.3月臨時増刊号)

同じよう苦悩は、『ほくいも』の活動家二世コミュニティ「ほくほくおいも党」のオフ会でも語られている。
また、『女性のひろば』の二世女性党員たちの座談会(「座談会・共産党員の子どもでよかった!」『女性のひろば』1988.5月号)でも同様の悩みが語られている。
古くて新しい"二世あるある"である。

そして、北村はついに母から言葉をかけられる。

……ある日…母が言い出しました。
「もうそろそろ入党を考えてもいいんじゃない、人に勧められるまま入党するより、大学生活に慣れて活動できる見通しができるまで待ったらって言ってきたけど、あなたももうすぐ二十歳だしね」
とうとう来ました。正直言って心は大きく乱れており、活動できる見通しどころであはありません。それでもなお、私には心のわだかまりを母に告げる勇気がありませんでした。あとは観念するのみ
…結局、母の言うまま承知してしまったという敗北感はありながらも、母の笑顔にこれでいいんだ、いつまでも甘えてはいけない、とりあえず悩みはおいといて、活動をはじめようと無理矢理決着づけたのです。
一九八二年七月十四日、父と母に見守られる中、入党申込書にサインしました。

「『党の子』『アカの子』の人生中間レポート」

「父と母に見守られる中、入党申込書にサイン」——こういうの、わたし(aikawa)はおもいっきり苦手なのだけど、一方でこういうの好む人たちや、感動を共感したい人たちがたくさんいるのも理解してるので否定はしないよ。
千秋がこういうスタイルを望んでいたのかどうかは微妙だけど、ちょっぴり期待はいていたのかもしれない、とは思う。

そんなことより、ここで大事なことは、北村の母の態度である。子どもが「見通しができるまで」待つところがえらい。というより党員の親ならこうするのがフツーでこれが当たり前といってよいだろう。いや、共産主義者としてどうであるか以前に、常識的にこうするであろう。

千秋の父・豊田氏もこうすべきなのにそうしなかった、あるいはできなかった。そうしていれば千秋も「割り切る」ことができた(はずである)。

その後、北村は二世共通の悩みを昇華していく。


一線をとびこし、歩き始めると、次々に悩みは解消されました。共産党員の家庭に生まれ育ってきたからこそ、…私なのであって、その環境、条件をはずして、私の意志を探したところで空論もいいところです。
確かに私は、両親が望むまま生きてきました。それは私なりの愛情表現でもありました。けれど、選択した道は決して安易な方向ばかりではありません。…

一人の人間として親から自立していく大切なプロセスだったようにもおもえます。

「『党の子』『アカの子』の人生中間レポート」

王道である。あまりにも王道すぎやしないかとひねくれ者のわたしは思うのだけど、「おしつけ」式もあれば、こういう「王道」式家庭もやはりあるのだろう。

『文化評論』1988.3月臨時増刊号

◆「無理矢理決着つける」あるいは「割り切る」

日本共産党は、このような「活動家二世あるある」の悩みにどういう回答をもっているのか(ちなみに共産党は「活動家二世」という用語を使っていない。念のため)。
共産党は宗教団体ではないので、こういう個人的な事柄に対し組織として公式見解を示すことはない(あくまで個人としての立場での表明はありうる)だろうが、個々の共産党員の公約数的な考えは、おおむね次のようなものになるであろう。

  • 共産党や科学的社会主義(マルクス主義)を知る、あるいは赤旗や『資本論』に触れる契機は何でもいい。それがたまたま親だったというだけ。

  • それが兄や姉である場合もあるだろうし、友人や先生、職場で労組役員してる同僚だったりする場合もあるだろう。共産党に触れる機会は人それぞれなのだ。

  • 親が党員でなくても、家で赤旗を購読していなくても、大人になってから共産党を知り、党員になった者でも、育った家庭環境の影響を受けているかもしれない。党員ではないが戦争を嫌悪する親たちの会話や、テレビニュースを見て愚痴る親など、何気ない家庭内の会話の影響を少なからず受けていることはおおいにありうること。

  • だから、共産党員である親がいるもとで育った共産党員は、親が共産党員であることに気おくれしたりコンプレックスを感じる必要はなにもない…と割り切ればいいんだよ。

こんな感じか。
「『党の子』『アカの子』の人生中間レポート」でも、「とりあえず悩みはおいといて、活動をはじめようと無理矢理決着づけた」と書いている、ソレである。

ただ、割り切ることができる人もいれば、そうでない人もいる。
個人の性格にもよるところも大きいだろうし、育った環境にもよるところもあるだろう。

しかし、マルクス主義では、解釈と実践は分かち難く結びついている。実践によって客観的真理に近づけるという思想なので、アタマの中だけで理解してもそれだけでは問題は解決せず、ある程度のところで「割り切っ」て実践することが求められる(割り切って実践し、そのうえでその割り切りが正しかったか検証するのだ)。

だから、わたしは、「割り切り」そのものを否定的には考えない。
マルクス主義の認識論とか大げさに言わなくても、PDCAサイクルと言えば分かりやすいかもしれない。


◆お父さんは「立派な人」

で、ようやく『ほくいも』のハナシに戻る。

千秋の友だちが、千秋の父が知事選に立候補するニュース記事を見つけ、素直に「すごい、すごい」とまったく悪意のない会話をはじめる。

千秋は、「頭がぼおっとしながら」も「頬をゆるめるよう努力する。なんでもないみたいに」。——この描写力もすごい。このシチュエーションと、自分自身の反応に心当たりのある共産党員は多いのではないか。

そこに、浅間くんが登場する。彼は千秋の同級生だ。

そうして平静を装ったわたしを見破ったみたいに、一呼吸おいて、
「[豊田さんのお父さんは]立派な人だねえ
と浅間くんがおだやかに言った。彼の指から口の中にしなびたポテトが移っていく。彼の頬から下が動くのを見つめた。開いた目にうっすらと張った水の膜ははっとするくらいにうつくしかった。父のことを話して、そんな風に形容されるのははじめてだった。
水を飲みくだす。胃まで落ちる。体の中心を通る管が冷えていく。わたしはずっと浅間くんのしんとした目を見ていたいと思った。もうすぐ、知事選がはじまる。

『ほくほくおいも党』。[ ]は引用者。小学館STORY BOX版ではこの部分は改稿されている

立派な人…。
もうすぐ、知事選が始まる…。
そんなことがあって、知事選が告示されて、そしてまた、何日か経ったころ、千秋は、放課後、浅間くんとふたりきりで出会うことになる。

つづく

つづきは、浅間くんのつづきとか、「薄情」とか「決定的な意義をもつようになりかねないそういう種類の些細なこと」とか


単行本『ほくほくおいも党』(卒業制作版)は、オンラインで発売してましたが完売していて再版の予定はないようです。
しかし、小学館STORY BOXで連載中(無料)で、毎月10日ころ更新みたいです。


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