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ルネサンス 第五回 盛期北方ルネサンス


西洋美術史

皆さん、こんにちは
前回の美術編5月14日の投稿で、ルネサンス第四回ヴェネツィア派を紹介しました。今回は盛期北方ルネサンスの紹介をします。
前々回第三回では盛期ルネサンスで、イタリアの美術を紹介しました。ダヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなど巨匠たちが活躍した時代、フランスやドイツ、ネーデルラントではどのような画家が活躍したのか見ていきましょう。

全体から見た、今回紹介する時代位置

西洋美術史には以下の分類があります。
① 古代美術
② 中世美術
ルネサンス
④ バロック・ロココ
⑤ 近代美術
⑥ 現代美術

③ルネサンスは以下の分類があります。
1. 初期ルネサンス
2. 北方の初期ルネサンス
3. 盛期ルネサンス
4. ヴェネツィア派
5. 盛期北方ルネサンス
6. マニエリスム

今回は、5.盛期北方ルネサンスを紹介します。

まとめてみたい方は、マガジンに「【美術】知っているとちょっと格好いい」に今まで投稿した分はまとめているのでそちらでまとめてご覧ください。


盛期北方ルネサンス美術

年代:15世紀後半~16世紀
地域:フランス・ドイツ・ネーデルラント
特徴:宗教改革

 中世の価値観から脱却を図ろうとする社会情勢はドイツやフランス、ネーデルラントなどの北方にも起こり、ルターは形骸化した教会を強く批判し、聖書に基づく信仰に立ち返る宗教改革を主張しました。それによって社会は混乱に陥り、以後、宗教戦争が長く続きました。また、宗教革命によって宗教美術が否定され、各地で痛ましい聖像破壊運動が起こりました。
 この時代は戦乱や疫病、飢餓などが蔓延し、16世紀にはいると、ドイツでは神秘主義が生まれ、「死の舞踏」のテーマが流行しました。これはもともと骸骨(死の象徴)が人間に忍び寄って最後の審判を告げるというもので、もともとは14世紀のペスト大流行期に絵画として広まったものです。以来、不穏な世相を反映して多数の作品が作られ、ヨーロッパに広まっていきました。
 芸術の上ではゴシック様式が残るが、イタリア的な人文主義的な観点も浸透しました。ドイツにおいては、デューラー、グリューネヴァルト、クラーナハ、アルトドルファーたちが活躍しました。

デューラー

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『四人の使徒』デューラー作


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『ヨハネの黙示録』デューラー作


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『アダムとエヴァ』デューラー作

ドイツを代表する画家がアルフレッド・デューラーです。木版画の技術を得て書物の挿絵を生業としていた彼は、二度のイタリア旅行を通じてルネサンスの技術を会得しました。木版画の連作『ヨハネの黙示録』を制作し、それは世紀末を迎えた社会において一大ブームを呼び起こしました。
アダムとエヴァ』において北方絵画の伝統にはなかった理想的な人体像を表現することに力を注ぎました。
また、『人体均衡論』などの著述にも精を出し、後世に大きな影響を与えることになりました。また、『四人の使徒』によって自身の宗教観を表明し、近代的な自我を自画像においても表現した。


グリューネヴァルト


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『キリストの磔刑(イーゼンハイム祭壇画)』


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『聖エラスムスと聖マウリティウス』

 デューラーと同時期に活躍ながら、対照的な作画を見せたのが、マインツ大司教の宮廷画家として活躍し、数多くの磔刑図を手掛けたグリューネヴァルトです。線描主体だったデューラーに対し、彼は鮮やかな色彩を用いた幻想的かつ凄惨で生々しい表現といったゴシック的な作風で、ドイツ絵画史上において重要な存在感をもつ『イーゼンハイム祭壇画』を生み出しました。この大作はキリスト教美術史上、最高傑作といわれ、圧倒的な迫力を持します。
 その肉体表現や合理的な建築空間にはイタリア・ルネサンスの影響もみられる。『聖エラスムスと聖マウリティウス』では実写的な表現も行われている。


 クラーナハ


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『泉のニンフ』クラーナハ作


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『ヴィーナス』クラーナハ作

 宗教改革によって宗教美術が否定されると、俗世的なジャンルが盛んになりました。アルトドルファーは史上初めて人物のいない風景画を制作しました。ルターの友人であったクラーナハは、宗教画とともに宮廷人向けに『ヴィーナス』など宮廷的な作品を多く生み、アルトドルファーと同じく、風景を作中に挿入しました。彼らの風景表現は後世のドイツ・ロマン主義につながりました。


ホルバイン


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『死の舞踏』ホルバイン作


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『墓の中の死せるキリスト』ホルバイン作


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『ヘンリー8世の肖像』ホルバイン作

 宗教画家としてキャリアをスタートさせたハンス・ホルバインは版画集『死の舞踏』を制作しました。やがて肖像画を専門とし、最終的にはイギリス国王の宮廷画家とりました。その優雅で実写的な肖像画は模範となって影響を与えました。

アルトドルファー

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『アレキサンドロス大王のイッソスの戦い』アルトドルファー作

 16世紀初頭、アルトドルファーは史上初めて人物のいない風景画を描きました。デューラーもイタリア旅行の途中に水彩で風景を描いたが、アルトドルファーは油彩画で森や城を描き、『アレキサンドロス大王のイッソスの戦い』のような壮大な歴史風景画も制作しました。彼を中心にヴぉルフ・フーバーなどドナウ河畔では風景画が盛んになり、ドナウ派と称されます。
 宗教画によってプロテスタント圏で聖画が禁止されたことや、人文主義や愛国主義の高まりと関係すると言われる彼らは、森や自然のうちに神の存在を見ようとするドイツ的な自然観を表しており、のちのドイツ・ロマン派やドイツ表現主義の先駆となりました。

 メムリンク


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『最後の審判』メムリンク作

 独自の油彩技法を生み出したネーデルラントはその実写性において15世紀そこイタリア絵画と肩を並べる勢いを持っていたが、16世紀に入ってイタリア・ルネサンスが円熟するとその影響下に入りました。多くの画家がイタリアを旅行し、数学的遠近法や人体表現を学び、イタリアと古代の芸術が理想とされるようになった。
 15世紀のネーデルラント絵画が持つ精緻な表現様式よりもダイナミックな盛期ルネサンスの様式を目指すこれらの画家はロマニストと呼ばれます。

 ブリューゲル


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 『ネーデルラントのことわざ』ブリューゲル作

 ブリュッセルで活躍したピーテル・ブリューゲルは風景画と風俗画において後世に多大な影響を及ぼしました。イタリア旅行はしたが、ルネサンスには傾倒することなくボスの作風を受け継ぎ、『ネーデルラントのことわざ』など土着や風俗、聖書の主題などを多数の人物を画面上に巻き散らすことで表現しました。実写性に加え、独自の感性を光らせる風景画も多く残している。
 宗教改革により教会からの注文は減ったものの、代わって多くなったのが市民からの風景画や風俗画の注文であった。

以上が盛期北方ルネサンスです。

1517年、ドイツのヴィッテンベルクでルターが95か条の論題をたたき出し、火がついた宗教改革。これを境にキリスト教への絶対性が薄れ、日常を重視する風潮や、価値観の多様化が進んでいきました。
イタリアでは1500年から1530年まで絶賛盛期ルネサンスでミケランジェロの『最後の審判』など、ラファエロの聖母の絵画などキリスト教を讃える美術は多くありました。しかし、北方ルネサンスではその時期には、もう宗教画はかつてほど称賛されるものではかなったのです。
このような違いはやはりローマ教皇というキリスト教の頂点の存在が、イタリアにはいたという地理的距離の影響力が大きかったのでしょう。
歴史と美術史をリンクさせてみてみると、お互いがより理解できておもしろいですね。

次回、美術編はルネサンス第六回マニエリスムです。全六回のルネサンス美術もいよいよ最後です。
次回もお楽しみに!


P.S.


メムリンクの『最後の審判』は左右に天国と地獄がわかれてますね。ミケランジェロの『最後の審判』では上下で天国と地獄が分かれてましたね。メムリンクの『最後の審判』の天国の方にある凱旋門のような立派な門は何なんでしょうね。あと、中心上のキリストに向けられる剣と花の花は何なんだろう。剣は贖罪の意味合いでキリストに向けられたものというとり方ができるけど、花も何かキリスト教的な意味があるのでしょうか?気になる。

ブリューゲルが『快楽の園』を描いたボスの影響を受けていたなんて。確かに奇妙な人は『ネーデルラントのことわざ』にもいますもんね。左下の女の人とか誰をなんで縛ってるんでしょうね。人にしては歪ですが、人じゃないんですかね?
ブリューゲルの絵も、ボスの絵と似て不気味な雰囲気と、目を離せない魅力がありますね。

最後まで読んでくれてありがとう♪

Aika