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ブラジル留学日記01「ミュンヘン発サンパウロ行き」

2014年2月13日、私は羽田空港を飛び立った。

実家のある青梅市からどうやって羽田空港に向かったかは覚えていないが、まだまだ寒い日だったので、ダウンコートを着ていたのは覚えている。
なぜならそのダウンコートが「常夏」のはずだったブラジル滞在に非常に役に立ったからだ。

まず、トランジットのためにミュンヘンに向かう。

ルフトハンザ航空のエアバスA340-600はトイレが地下についていたのを今でもよく覚えている。
トイレの近くには「ご自由に」とスナックや飲み物が常備されていた。

予定通りミュンヘンに到着すると、空港内の小さなバーでソーセージとビールのセットがプロモーション価格で提供されているのが目に入った。

ドイツなんて寄る機会もなかなかないし、食べてみたいと思ったが、私はビールが飲めない。
単品でソーセージと他の飲み物を注文する勇気もなかった。
こういう時に、英語をマジメに勉強しておけば良かったと思うのである。

結局、ソーセージは諦めて文具店に入った。
バッグに入れて持ち歩けるノートを買い忘れたことを思い出したからだ。

そこでモレスキンのような、黒いソフトカバーにゴムバンドが付いた小さなノートを買った。

約3時間後、「São Paulo (GRU)」と書かれたゲート前のベンチで搭乗を待った。

この飛行機がサンパウロに到着すると、夢にまでみた短期留学生活がはじまる。
「ブラジルに行く!」と必死だったけど、今それが叶おうとしている。

すると「現地に行ったらなんとかなる」という楽観主義だったのが一転、乗る直前にとてつもない不安に襲われた。

長年勤めた音楽教室の退職、友人や生徒さんたちが開いてくれた壮行会、いただいたお餞別、親の説得、自分の年齢や人生など、いろんなことが頭の中をグルグルしはじめた。

「この留学で何か結果をださなければ」

スマートフォンのメモに書いてあったやりたい事リストを読み直し、ミュンヘンで買ったノートに清書した。

飛行機は予定時刻より少し遅れてサンパウロのグアルーリョス空港に到着。

2010年に初めてブラジルを訪れた際はリオデジャネイロ到着だったので、飛行機を降りた時に感じた海岸沿い独特の空気と、観光地ならではの雰囲気に感動した。
何より、リオの空港は「イパネマの娘」を作曲したアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港。
その名前だけで、ブラジル到着を実感することが出来た。

一方で、商業都市サンパウロの空港は無機質で暗く、必要以上のものはない。
正直、南米最大都市の国際空港とは思えないほどシンプルだ。

入国審査を済ませて出口を出ると、探していた人がすぐに見つかった。
向こうも、私をすぐに見つけてくれた。

「島田さん?長旅お疲れさま、徳弘です。」

そう言って、すぐにスーツケースを運ぶのを手伝ってくれた。

徳弘先生はサンパウロの東洋人街にあるルーテル教会の牧師さん。
日本からの移民や日系人が多いこのエリアの教会で日本語を話せる牧師さんを募集していたところに立候補し、数年前に妻ゆみこさんと一緒にブラジルへやってきた。

「朝早くからすみません。お世話になります」
「いえいえ、早朝の送迎もよくあるので慣れていますから」

なんてありがたい。

この日、徳弘先生に空港まで迎えに来てもらえることになったのは、最初の3ヶ月間、ルーテル教会のゲストハウスに泊まることになっていたからだ。
このゲストハウスは日本人や日系人が長期滞在しており、私のような教会の信者ではない者も宿泊できる。

一時間もしないうち、ゲストハウスに到着。
共同エリアなどの説明を受ける前に、まずは休ませてもらうことにした。

ゲストハウスの部屋には勉強机、小さなクローゼット、だいぶ古いが非常に丈夫な木製のシングルベッドが置かれていた。
窓はない。それでも寝るだけには充分の場所だ。

私もサックスもスーツケースも、何のトラブルもなく無事に日本の反対側に到着。
とりあえず最初の関門は突破した。

少し体を伸ばそうとベッドの上に横になると、安心したのか眠ってしまった。

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