祝50周年!ブラジルの名盤『クルビ・ダ・エスキーナ』がもっと好きになる10のキーワード
今年5月、Discoteca Básicaというブラジルのポッドキャスト番組の企画にて「音楽関係者の選ぶブラジル音楽ベスト10」が発表されました。
70年代強し!!
その中でも72年は多くのブラジル音楽の名盤が生まれたと言われています。
このランキングで堂々の1位に輝いたのはミルトン・ナシメントとロー・ボルジスによる2枚組アルバム『Clube da Esquina』でした。
このアルバムがブラジル音楽史の中で、こんなにも大きなインパクトを残したのは、楽曲の良さだけでなく、ジャケット写真、構成、2枚組という当時は珍しいスタイル、そして誕生までのエピソードなど様々な理由があげられます。
私が最も好きなアルバムの1枚です。
既に聴いたことがある方も、まだ聴いたことがない方も、この『Clube da Esquina』とはどんなアルバムなのか知っていただきたいと思い、リリースから50周年を記念して、アルバムがもっと好きになる10のキーワードと共に、エピソードをご紹介したいと思います。
今回はミルトン、ローを始め、アルバムに参加した“クルビ・ダ・エスキーナ仲間”のインタビューを元に書いています。次回は音楽的な目線での魅力や、各曲のエピソードに迫る予定です。
①ベロオリゾンチ
全ての始まりは、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンチで彼らが出会ったことから始まります。
17世紀の終わりに金鉱が発見され栄えたミナスジェライス州。
地図で見るとお分かりいただけますが、海のない州です。リオデジャネイロやサルヴァドールなど海岸沿いとはまた違った文化が根付いています。
1987年に州都がオウロプレットから計画都市ベロオリゾンチになりました。
ミルトン・ナシメントは、家政婦として働いていた未婚の母の元にリオデジャネイロで生まれました。ミルトンが2歳になる前に母は結核で死去、祖母に引き取られます。
祖母が家政婦をしていた夫妻の娘リリアはミルトンを大変可愛がっていました。そして、夫との間に子供を授かることができなかったリリアはミルトンを養子にもらえないかとミルトンの祖母に相談します。
こうしてリリア夫妻の養子となったミルトンですが、生母の名字であるナシメントは残すことにしました。
リリア夫妻はミナスジェライス州のトレース・ポンタに引っ越します。
実は、リリアはブラジルクラシック界の巨匠ヴィラ・ロボスに師事した経験もある音楽教師。その影響でミルトンは音楽が大好きになります。
特に女性歌手が大好きで、国内の女性歌手だけでなく、エラ・フィッツジェラルドやビリー・ホリデイの歌い方を真似していました。
トレース・ポンタにて、同じく音楽が大好きなワグネル・チゾ(ポルトガル語ではワギネルに近い発音)に出会います。
ワグネルの母親はクラシックのピアニストで、彼もピアノの演奏はもちろん、ミナスジェライス州のフォルクローレと共に音楽センスを磨いていました。
ワグネルとミルトンは一緒に演奏をはじめます。
当時を振り返って、ミルトンは「あの時はワグネルのピアノじゃないと歌いたくなかった」とインタビューで話すほど、ワグネルのピアノが大好きだったそうです。
2人は、州都ベロオリゾンチのダンスパーティーで演奏するようになりました。トレース・ポンタとベロオリゾンチは300km程離れていて、車だと片道4時間以上かかります。
ベロオリゾンチには腕の良いミュージシャンが近隣の街から集まっていました。
家賃の高い州都で生活するために、与えられる仕事を熟していたミルトン。
ピアノトリオが流行した際は突然仕事でコントラバスを弾くことになり、指から血を流しながら弾いていたそうです(コントラバスの弦は太く、押さえるためには力とコツが必要。普段練習していない人が弾くと指の皮が向けたりしてしまいます)。
また、ミルトンはワグネルの兄らと共に、コーラスグループ「Quarteto Sambacana」というバンドにも参加しました。
ロー・ボルジスの家族も、音楽が大好きでした。
ベロオリゾンチにあるマンションの17階に住んでいたボルジス一家。
ある日、母親はローにパン屋へおつかいに行くよう頼みます。ローは、エレベーターを使わず階段を降り始めました。
すると遠くから歌声とギターが聴こえてきました。階段を降りるにつれて近くなるその美しい歌声の正体は、ミルトンだったのです。
ミルトンはローと同じマンションの5階に住んでいました。
階段に響くミルトンの声とギター、ローはその時のことを鮮明に覚えているそうです。
ですが、当時ローは10歳。ミルトンは20歳で既にプロとして活動していたので、2人は一緒に音楽をすることはありませんでした。
②映画とレコード
コーラスグループで歌うミルトンの才能に目を付けたのは、ローの6歳上の兄マルシオでした(ボルジス一家は11人兄弟)。
2人は既に友人で、マルシオは人の曲ばかり歌っているミルトンに作曲をするよう勧めますが、本人はコーラスアレンジに夢中でした。
ある日、マルシオは1962年のフランス映画『Jules et Jim』(邦題『突然炎のごとく』)を観たいと、ミルトンを映画館に誘いました。
2人の男性と1人の女性をめぐる友情と愛の物語に魅了された2人は、14時に映画館に入って22時まで繰り返し映画を鑑賞しました。
その興奮冷めやらず、ミルトンは「マルシオ、家にギターと鉛筆とノートある?作曲しよう!」と提案します。
2人はボルジス家で作曲をはじめました。その時に作られた曲が「Gira Girou」です。
ミルトンよりも10歳年下のローは、彼の同世代から刺激を受けるようになります。
ミナスジェライス州の田舎に生まれたベト・ゲジスは、父親がショーロを演奏するプロのクラリネット奏者の家庭に育ちました。
ゲジス一家はベロオリゾンチに引っ越し、音楽繋がりでローと仲良くなります。
ブラジルでも大流行していたビートルズが大好きだったローは、彼らが主演した映画『A Hard Day's Night』をベトに紹介します。
ブラジルの伝統音楽を聴いて育った田舎の少年ベトは、髪の長いビートルズを観て「この人達、おかまなの?」と言ったそうですが、その後、ビートルズにどっぷりハマってしまったのはベトの方で、ローとビートルズのカバーバンドを結成。ベロオリゾンチで有名になります。
のちにベトは『Clube da Esquina』の中に最もロック的なサウンドを盛り込んだ重要人物となりました。
このように、当時は友人たちと映画館に行ったり、誰かの家に集まってレコードを聴いたりしていました。
その直後、興奮冷めやらぬまま作品の感想を述べあうことが楽しみの一つだったようです。
気に入ったらみんなで一緒に真似てみたり、それをベースに新しいものを作り出したりする機会が多かったのではないかと思います。
ボサノヴァが生まれた50年代後半から60年代頃も、同じようなこと(お金持ちのナラ・レオンの家やファンクラブ*で当時貴重なレコードを聴く)がありました。
今のようにネットフリックスで各自が家で映画鑑賞したり、ストリーミングで音楽聴き放題の時代とは全く違った日常ですね。
*シナトラ&ファルネイファンクラブについては、こちらの記事で触れています→【プライド月間】ボサノヴァ、人種と同性愛 ジョニー・アルフの生涯
③トラヴェシア
ミルトンはリオデジャネイロやサンパウロでも活動するようになり、1967年に国際歌謡フェスティバルで「Travessia」を披露します。
惜しくも優勝は逃しましたが、2位入賞。
2位という結果を聞いて納得できない主催者が「八百長だ!」と叫んだほど、会場ではこの曲が絶賛されていました。
これをきっかけに、ミルトンは国内だけでなく国際的に名前が知られるようになり、最初のレコードを録音することになりました。
こうして人気を得たミルトンは、ロー・ボルジスと共同名義の作品、しかも2枚組*という当時珍しい企画をオデオンに相談。
レコード会社は無名の少年ロー・ボルジスを起用することに前向きではありませんでしたが、最終的に説得することができました。
*それまでに2枚組でリリースされたのはガル・コスタの『Fa-Tal - Gal a Todo Vapor』のみと言われています)
ちなみに「Travessia」は「Pai grande」、「Morro Velho」と同じ日に作曲されました。
「Travessia」を作曲したミルトンは、バスに乗ってベロオリゾンチに向かいます(リオで活動するようになっても、毎月ベロオリゾンチに帰っていたそうです)。
そこで法律を学ぶ大学生の友人フェルナンド・ブランチを呼び出し、彼に歌詞をつけてくれないかとお願いします。
「どこかおかしいんじゃないか?」とフェルナンドはミルトンのお願いを一切聞き入れません。というのも、フェルナンドはこれまで一度も作詞をしたことがなかったのです。
フェルナンドは小さい頃から本が大好きで、ポエムのセンスがあることを感じていたミルトンは、夜通しフェルナンドを説得し続けました。
フェルナンド「もし(歌詞が)上手くいかなかったら?」
ミルトン「そうしたら、俺たち仲間うちで、酔っぱらった時に歌えばいいさ」
別の日。再びリオからベロオリゾンチに戻ったミルトンは、フェルナンドと飲みに行きます。
バールに入ってからも手に持っている紙切れを手放さないフェルナンド。
「フェルナンド、その紙は何?」と何度聞いても答えません。
「フェルナンド、その紙、何でもないなら捨ててくれ。捨てないなら寄こしてくれ、代わりに捨てるから。」
すると、フェルナンドは立ち上がって紙切れをミルトンに渡し、トイレへ駆け込んだそうです。
その紙切れには約束の「Travessia」の歌詞が書かれていました。
ミルトンはその時のことを思い出して「フェルナンドは僕に歌詞を渡したとき、死ぬほど恥ずかしかったんだと思う」と話しています。
「Travessia」の話はこちらの記事にも書いていますので、宜しければご覧くださいね♪
④クルビ・ダ・エスキーナ
このアルバムタイトル「クルビ・ダ・エスキーナ=街角クラブ」から、多くの人が、ミルトンやロー、ベトがベロオリゾンチの街角で音楽を作ったと連想しているようですが、実際にこのエスキーナに溜まっていたのはローとその地区の仲間たちなんです。
ローはブラジルで“Classe média baixa”と呼ばれる下位中産階級の生まれ。
プレゼントにギターを買ってもらえても、遊びに行くお小遣いが貰えるような家庭ではなかったため、同じ年ごろの少年少女たち(同じエリアに住む人はだいたい同じぐらいの収入の家庭であることが多い)は道端に座り、喋ったり、ギターを弾いて歌ったりするのが日常の楽しみでした。
ローが弾いていたのはビートルズ、シコ・ブアルキ、ボサノヴァの名曲。
そして少しずつ自分の曲を作りはじめます。
この日も、リオからバスでベロオリゾンチに戻ってきたミルトン。
ボルジス一家の母にローの居場所を尋ねると、「ローなら、あのエスキーナ(角)よ。あそこにへばりついて離れないのよ。」と。
その角に向かうと、ローは新曲の最初のコードを鳴らしながらメロディを作っていました。
そのコードを気に入ったミルトンは、一緒に作曲したいと提案します。
ボルジス家で作曲を始めたローとミルトン。
仕事から帰ってきたマルシオは、頼まれる前にメロディに歌詞をつけ始めます。
そうして完成したのが、このエスキーナへのオマージュ「Clube da Esquina Nº 1」でした。ボルジス一家の母は、この3人の様子を見て涙したそうです。
この時に作曲された「Clube da Esquina Nº 1」は本作に収録されている「Clube Da Esquina Nº 2」とは別物です。
Nº 2の方が有名になってしまいましたが、「Nº 1がなければ、Nº 2も生まれてないからね!」とメンバーは前向きに話しています。
⑤マラズー、海の家
ローは10歳という年齢差から、ミルトンやマルシオがバールに飲みに行くときに誘ってもらえず、ずっと自分はミルトンから嫌われていると思っていました。
ベロオリゾンチ滞在中、エスキーナで自身の音楽性を高めているローをみて、ミルトンはバールに誘いました。
自分にはカイピリーニャ(サトウキビ焼酎を使ったブラジルの庶民的カクテル)、ローにはジュースを頼もうとすると、ローは自分もカイピリーニャを飲むと言います(当時未成年ですが、その辺りは目をつぶってください)。
その瞬間、ミルトンはローがもう子供じゃないことに気が付いたそうです。
その後、ビートルズから影響を受けたローの楽曲「Para Lennon e McCartney」をミルトンはアルバムに収録。それが大好評となります。
こうして“2曲目”をお願いするどころか、リオで一緒に共同名義のアルバムを作らないかとローを誘います。
ローは当時17歳。
実はブラジルの男性は18歳になると1年の兵役が義務付けられているんです(今も義務です)。
兵役に行くつもりが「ミルトン・ナシメントに誘われて、アルバムを作ることになったので、兵役を免除してもらえませんか」とブラジル軍に話すと、「ブラジル軍はお前のような芸術家、コミュニストはいらない。免除ではなく、こちらからお断りだ」と言われます。
ブラジルは当時、軍事政権時代でしたので、左翼的思考が多い芸術家は特に目を付けられていました。
兵役に行く必要はなくなりましたが、最大の問題が残っています。
母親の説得です。
未成年、更には軍事政権の最中リオに行くなんて、ローの母親は大反対でした。
結局、母親は渋々サインをしたそうです(ブラジルでは未成年の引っ越し、飛行機、バス移動などで両親の許可が必要)。
そしてローは親友のベト・ゲジスも一緒に連れて行ってもいいかとミルトンにお願いします。
ベトの母親は「ベトは田舎の子だから、車にひかれないか心配だわ。リオは車がいっぱい走ってるでしょう」と車を心配していたそうですが、説得することができました。
こうして、ミルトン、ロー、ベトの3人はリオデジャネイロで共同生活を始めます。
四六時中ギターを弾いていることで近隣住民に文句を言われ、イパネマ、チジュッカ、ジャルジン・ボタニコなど、リオのあらゆる地区を行き渡ります。
そこでミルトンのマネージメントをしていた人が、リオ市内からグアナバラ湾を渡った二テロイ市の先にあるピラチニンガ海岸のマラズーという土地に家を見つけてきたのです。
市内から離れたその場所は、音を出しても近所迷惑にならず、何よりも海が目の前にあって、海水浴を楽しんだそうです。海のないミナスジェライス州出身のローとベトにとって最高だったでしょう。
この家に3~4ヶ月間住みながら、残りの楽曲を書きました。
ミルトン、ロー、共にそれぞれの部屋にこもって作曲をします。ベトは訪問診療する医師のように2人の部屋を行ったり来たりしながら、「今日は何作ったの?」と尋ねていたそうです。
ミナスジェライスの作詞家たちや、写真家のカフィ、ローの家族もマラズーの家を訪問したそうです。
⑥軍事政権
前述した通り、この頃ブラジルは軍事政権下にありました。
芸術家の表現の自由は奪われ、作品を作っても軍の検閲によって発表ができないことも多く、ついにシコ・ブアルキやナラ・レオン、それに続いてカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルがヨーロッパに亡命をします。
もちろん、ミルトンも軍部に目を付けられていました。
「軍部に呼ばれて、私の音楽は“インテリ向けの音楽、国民には理解できない”と言われました。私はブラジルから出るつもりはありませんでした。もし彼らが私を殺すと言ったとしても、出ないと決めていました」とインタビューで話しています。
アルバム『Clube da Esquina』の歌詞には、友情や愛以外にも軍事政権当時の彼らの様子や心情が感じられます。
フェルナンド・ブランチは「私たちは自由とデモクラシーが欲しかった。その気持ちは私たちの中に存在しているんです」と話しています。
ミルトンたちより少し若いローは、「64年に軍事政権、ベトとの出会い、ビートルズ、それが一気にやってきて混乱した」そう。
⑦ジャケット写真
ジャケット写真はペルナンブーコ出身の写真家カフィが手掛けることになりました。
カフィはマラズーの家やスタジオ、そしてベロオリゾンチに足を運び、クルビ・ダ・エスキーナに関わる人物の撮影を始めました。
レコードは見開きになっていて、開くとカフィが撮影したクルビ・ダ・エスキーナファミリーの写真が見れます。
表面のジャケット写真は、ミナスジェライス州の道路を走っている最中に偶然この2人の少年を見つけ、車の中から撮影されました。
この写真が気に入って、アルバムのタイトルもアーティスト名も書かれていない斬新なデザインを提供したカフィ。
ミルトンは「これだ!」と気に入りましたが、周りの意見では現在の裏面ジャケット(タイトル、名前にボルジス一家の写真)が表面に相応しいとされていました。
しばらくして周りの意見も変わり、この少年2人の写真が表面ジャケットとして正式に採用されました。
裸足、パン、肌の色が異なる少年2人、不審そうな眼差し、土、作物、有刺鉄線。
まさにブラジルを象徴する1枚と言われています。
多くの人がこの少年をミルトンとローの少年時代かと思っていますが、少年の名前はトーニョとカカウ。
『Clube da Esquina』40周年の際に、ジャーナリストが探し当て、大人になった彼らにジャケットを再現してもらうことができました。
彼らは自分たちがブラジルで最も人気のあるアルバムのジャケットになっていたことすら知りませんでした。
なんとその後、弁護士を通して2人はカフィ、ミルトンとロー、レコード会社を肖像権の侵害で訴えます。カフィは2019年に亡くなっており、裁判ではレコード会社の責任になると予想されていますが、まだ判決は下されていません。
判決次第では、今後、このジャケットでの再版ができなくなる場合もあるそうです。
⑧レコーディング
また、非常に興味深いのはレコーディングです。
クルビ・ダ・エスキーナのメンバーは青年期からの仲間で構成されていますが、彼らが全員一緒に活動したことはないんです。
そのため、レコーディングはリハーサルなしで行われたというまさかの事実がインタビューを通してわかりました。
エウミール・デオダートが弦楽アレンジをした曲以外は、殆どぶっつけ本番状態だったそうです。
しかも、担当楽器も決まっておらず、「この曲は俺ベースやりたい!」と早い者勝ち。確かに、クレジットを見てもバラバラです。
最も多くの曲のレコーディングに参加したのはベト・ゲジスだったそう。
伸びやかな声と豊かな表現の持ち主ミルトンに、ビートルズなどロックを演奏していたローとベト、クラシックをバックグラウンドにもつワグネル、ジャズなどお洒落なコードが得意なト二ーニョ、そこにリオのホベルチーニョ・ダ・シルヴァなどが参加。
異なる音楽性をもった仲間たちが一斉に音を出しました。
ちなみに、当時のスタジオの録音システムは2チャンネルしかありませんでしたので、バンドは全員一斉に録音、歌は別録音だったそうです。
リハーサルがなく、ここまで一体感のあるものを作り出せるのは、お互いがお互いの才能を認めている証拠とも言えます。
また、なんでも試してみる創造力と、いざという時の集中力はブラジル人の強み。彼らの気質からきていると感じます。
⑨友情
ブラジル人は普段から仲間を大切にしていると感じます。
一見誰にでもフレンドリーなブラジル人ですが、仲間になるというのは別物で非常に深いものです。
相手を信頼し、自分も信頼される事。
それは一緒に過ごす時間の中で生まれます。
例えば音楽仲間でも、一緒に演奏する以外の時間、つまり、会話や感動の共有から友情が発生することが多いです。こうして時間を共に過ごすことをを“convivência”、(共存) と言います。
未成年のロー、その親友ベトをリオに連れてきてからのアルバム制作は大変なことも沢山あったと思います。
インタビューで「ミルトンがローをアルバム制作に誘ってリオに行くとき、ローはまだ17歳だった」と話しているので、彼らがアルバム制作を始めたのは1969年頃なんです。
そしてアルバムが発表されたのは1972年。
誰もその点について話していないのですが、完成までかなりの時間がかかっています。
その間も、ミルトンはローとベトの面倒(金銭的にも)を見ていたそうです。
「みんなよりもちょっとだけ年上のお兄ちゃんみたいだった」とミルトンが話す通り、音楽面だけでなく、生活面でも多くの仲間たちを助けてきたんだと思います。
ちなみにアルバムが完成した際、ミルトンは30歳でした。
ミルトンは「僕は友情がある時だけ、一緒に作品を作るんです」と話しています。『Clube da Esquina』は、まさにその証です。
ギタリストのファビオ・レアウが「良い音楽があるところに友情が生まれるんじゃない、友情があるところに良い音楽が生まれるんだ」と話していたのを思い出しました。
⑩彼らが残したもの
「僕は青春時代、クルビ・ダ・エスキーナを聴いて育ったんです!」とファンに言われたローは、「僕は青春時代、そのクルビ・ダ・エスキーナを作ってたんだよ」と冗談交じりに答えたそうです。
『Clube da Esquina』は、ブラジルを越え、世界中の音楽ファンに愛される作品となりました。
ブラジル音楽史の中で、最も重要な転換期はボサノヴァ、ジョアン・ジルベルトのギターと歌と言われていますが、クルビ・ダ・エスキーナのメンバーは後にも先にもない強烈なインパクトを残すことになりました。
あまりにも偉大過ぎて、その後ソロ活動で成功したメンバーたちも「音楽人生の一番最初に一番凄い物を作ってしまった」と言っている程です。
また、『Clube da Esquina』は商業的な要素が全くないにも関わらず大成功したアルバムとも言えます。
これは、「僕らは儲けたくて作品を作ったのではない。だからクルビ・ダ・エスキーナはムーブメントではないんだ。とにかく良い作品を作り出したかった」というローのコメントからもわかるように、全員が同じ方向を向いていました。
個人がどうミュージシャンとして成功するかは、全く考えていなかったように感じられます。
フェルナンド・ブランチの甥は「『Clube da Esquina』は作品としてのコンセプトがある。楽曲だけでなく、曲順、ジャケット、全てを含めて『Clube da Esquina』と称されるのです。」と話していますが、全くその通りだと思います。
多くの人が彼らの音楽に影響され、同じことをしようとしたりしたと思います。
ですが、この素晴らしさは絶対に越えられません。
彼らにとっても奇跡的な作品だったからです。
ブラジルでは新しい世代が別の形で面白いものを作り出しています。それを『Clube da Esquina』と比較するのはナンセンスだと思います。
言ってしまえば、『Clube da Esquina』は50周年で殿堂入りという感じでしょうか。
50年経っても色褪せない彼らの友情と音楽への情熱。
そしてブラジルの象徴として、これからもずーっと愛されていくでしょう。
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