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建築論の問題群03〈建築の社会性〉 「モノ」と「コト」の往還に見出す建築論の〈社会性〉

香月 歩(東京工業大学 助教)

建築論・建築意匠小委員会では、2019年3月に〈社会性〉をテーマとしたシンポジウム、および2022年12月に同テーマのラウンドテーブルを実施した。ここではこれらの研究会における議論を承けて考えたことを述べてみたい。

建築の社会性、その射程
 
各研究会の詳細はレポートを参照いただければと思うが、そこでの論点は、建築家の創造的活動(クリエイティビティ)は社会といかに関係しうるか、ということだったと思う。「社会性」という言葉の意味を辞書でみると、1. 広く社会に通用する(または存在価値が認められる)ような性質、2. 社会集団の一員であるのにふさわしい性質 とあるから、(1. をベースに考えると)個々の建築家の創造的活動によって生み出された建築が、いかにして広く社会に認められるような価値をもちうるのか、という言い方もできるだろう。
 この議論の背景には、『行き過ぎた社会性』や『過度なローカリズム、ユーザー・フレンドリー、地球環境主義』といった登壇者の発言に象徴されるように、建築界全体における議論や評価が、共時的な社会への応答に偏重している状況への危惧や批判が存在すると思われる。地域社会の課題や地球環境問題など、共時的な社会のイシューとそれに対する応答が、説明責任や点数化といったタスクとして課されるなかで、そうした社会からの強い要求に応えることがそのまま建築の社会性として一義的に評価されているのではないか。そして、そもそも社会とは何か、建築家あるいは建築論は社会といかなる関係をとりうるのか、という根源的な問いまで議論は展開した。
 私はこれらの議論に共感を覚えつつも、一方で、それでは私たちは共時的な社会のイシューそのものにどう向き合えばいいのだろうか?どのように関係をとりながら建築を考えられるのだろうか?という疑問も抱いた。

「社会」の解像度
 
これまで「建築論の問題群」と題して行われてきた一連の研究会は、2018年に実施したアンケートの回答結果がベースとなっている[注]。そのため、今回の「社会性」というテーマの背後には、そこに集められた具体的なキーワードたちが存在している。その内容は、例えば『シェア』『コモンズ』『インクルーシブ』『日常』『暮らし』『アクティビティ』『余暇』『移動』『郊外』『アジア』といったものがある。(実は『社会性』あるいは『社会』というキーワードはほとんど登場しない。)
 私たちの社会は、戦後80年近くの間に、成長し、安定し、肥大し、硬直しつつある。あらゆる物事で経済性や生産性が至上命題として扱われ、ちょっとした問題にも説明責任を求められ、私たちの暮らしや身の回りの場所から冗長さが失われていく。上記のキーワードは、肥大化・硬直化した社会からのシフトを考える上で提示されたものと捉えられる。社会の肥大化・硬直化、そしてその息苦しさを誰もが実感しているいま、その社会を周縁から解きほぐすような建築、あるいは建築的活動に、多くの建築家がリアリティを見出している状況にあるといえるだろう。
 先に述べた私の疑問は、研究会で議論された「社会」への態度と、個々の建築家が向き合い実践する「社会」への態度における、それらのギャップ、あるいはこれらの態度における「社会」の解像度のギャップからきたものだった。私たちをとりまく共時的な社会のイシューから、建築論を出発することはできないのだろうか。

シン町家
 
このように考えたのは、最近私が関わるリサーチが起点となっている。
 大学時代の同級生で建築家の山道拓人氏に誘っていただき、法政大学の江戸東京研究センターで町家をテーマとしたリサーチプロジェクトに参加している。そこでは、近年若い世代を中心に活発化している職住近接や地域に開いた暮らしを包摂しうる建築として町家に着目し、町家的な特徴をもった建築を「シン町家」と名付けて、歴史的なもの、現代的なものを問わず収集している。そしてその魅力や可能性を、建築の意匠、地域的な広がり、社会制度的枠組みといった観点から検討している。
 「シン町家」の選定根拠は、町家というタイポロジーに備わる特徴を応用している。例えば、両隣に建物が近接する(=都市的環境に建つ)、通りに面して開かれた構えがある、トオリニワのように通りから内部へ引き込む空間構成をもつ、など。昨年度はいくつかの事例を見学し、建築家や住人の方々にインタビューした。伝建地区の町家から団地の商店街の店舗まで、様々な事例を訪れたなかで共通して印象的だったのは、建築やそこに暮らす人(建築家自身だったりもする)が、その地域の一部として違和感なく組み込まれている状態、あるいは硬直化しつつあるコミュニティにおける新たなハブとして機能している状態だった。それはまさしく、自分の身の回りという「社会」の周縁から、都市やコミュニティが解きほぐされる現場だったといえよう。
 上述したようにこれらの事例は、建築の(ゆるい)形式を根拠に集められている。それだけでは対象を絞れないので、職住近接や地域との関係性といった要素も加味してはいるが、実際に訪れるとこちらの想定を越えて、上記のような状態が共通してみられた。ここから、共時的なイシューと建築論や建築家の創造性との接続を考えてみたい。

シン町家実践ハンドブック(2021年度研究報告書) 山道拓人, 香月歩, 佐竹雄太, 森中康彰 共著
写真:©morinakayasuaki

タイポロジーの知恵、パロールの創造性
 
上記の活動でのインタビューで、ある建築家から「モノ派」「コト派」という言葉を聞いた。明確な意味は確認していないが、ここでは一旦、建築の特徴や魅力が、その造形やディテールや空間性といった「モノ」から語られる=「モノ派」、そこで起きている活動や情景といった「コト」から語られる=「コト派」、と解釈してみる。それは建築家の活動のスタンスやテーマとして用いることもできて、誤解を恐れずに言うなら、例えば前述のアンケートで社会的キーワードを提示する建築家は「コト派」として位置づけられるだろう。
 「コト」は魅力的であり、説得力がある。その一方で、ある種の正しさを強いるような危うさも孕んでいるように思う。それは研究会で語られた、共時的な社会の要求に感じる同質性や息苦しさとも通じている。
 「シン町家」でみた「コト」はたしかに魅力的であり、それは間違いなくこれらの建築の価値をつくる要素の一つだろう。しかしその「コト」の背景には、それを起こす「モノ」としての建築がある。新築であれ、無名の建物の改修であれ、それぞれの事例には「コト」を発生させる触媒のような「モノ」のつくられ方があり、ここから2つの方向性で「モノ」としての建築を論じることができると考える。
 1つの方向性は、これらの事例から町家というタイポロジーの現代的解釈として、地域性や同時代性を超えた普遍性を見出すことである。あるタイポロジーに備わる知恵を、それが共有された社会単位における状況や慣習からいったん切り離し、現代のイシューにも応えうる普遍性として再解釈する。「シン町家」のリサーチではそんなことを議論している。
 もう1つの方向性は、社会のイシューに対するパロールとしての建築家の創造性を、「モノ」から見出すことである。社会的イシューに応答する建築(=「コト派」の建築)は、「コト」のもつ魅力によって情報としてすぐに消費されてしまう。それはある意味で社会的なイシュー自体が通俗的な枠組みのなかで消費されてしまっている、ということでもある。しかしそのことに意識的な建築家であれば、その通俗的な枠組みのなかで、「モノ」としての建築の創作を通して絶えず逸脱を試みている。ちょうどラングというルール(=通俗性)から逸脱する行為としてのパロールのように。「コト派」(として位置づけられている)の建築を、「コト」から評価するのではなく、「モノ」の視点から考察することで、建築家の創造性そして建築論を、社会的なイシューと相対化して捉えることができないだろうか。
 肥大化し硬直化した社会に向き合うイシューへの応答のなかで、タイポロジーに内在する知恵、そしてパロールとしての建築家の創造性を思考する。「モノ」と「コト」の往還の中で、建築論の〈社会性〉を問い直すことはできないかと考えている。

[注]
建築論・建築意匠小委員会で「『建築論のテーマ』に関するキーワードのアンケート」として2018年春に実施された。73名の建築家および建築論・建築意匠・建築史分野の研究者からの回答は、2019年の建築学会大会PDにおいて発表、公開された。

香月歩
東京工業大学助教。2009年 東京工業大学 工学部建築学科卒業/ 2009-2010年パリ・ラヴィレット建築大学留学/ 2012年 東京工業大学大学院 人間環境システム専攻 修士課程修了/ 2017年 同 博士課程修了/ 博士(工学)/ 2018年より現職、2021年- 法政大学江戸東京研究センター 客員研究員、2022年- 法政大学兼任講師

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