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建築論の問題群02 〈建築の自律性と他律性〉               建築の自律性と他律性の中庸を見据える

坂牛卓(東京理科大学教授、O.F.D.A.)

はじめに

 建築の現代的思考をスタートする出発点に、僕は建築の自律性問題があると思っている。そういうことを言うと時代遅れだと言う人もいるようだ。確かに自律性問題はエミール・カウフマンがルドゥーを分析するあたりから近代建築の背骨のような属性として据えられた概念でありその根は相当古い。それゆえこの概念は批判を浴びて世紀末には建築の舞台から消えかかっていたのである。しかし今世紀に入ってから哲学的にその再考が始まり、生き返りつつあるように見える。そこでこの状況を慎重に検討してみたい。安易にこの揺り戻しに乗っかるのは拙速であろう。思想というものが一方の極から、一方の極に振幅する時には一度踏みとどまってこの振幅の中庸の解像度を上げて状況を精査することが必要である。そこで本稿はモダニズムが生まれた頃から、自律、他律の思想的な振幅をいくつかの著作の中に見出し、最後に私がその振幅の中でとっている方向性について説明したい。

建築に内在する概念、外在する概念

 ジェフリー・スコット『人間主義の建築』[i]は前世紀初頭の著作でネオゴシック全盛期のイギリスでゴシック建築を称揚する論理の誤謬を指摘してルネサンス建築の優位を主張したものである。そこでスコットが誤謬としたゴシック称揚の論理とはロマン主義、力学、生物学などで、これら全ては建築に外在する論理である。一方で彼がよしとした建築概念は量塊、空間、線などの建築に内在する概念であった。ここで1世紀前に建築に外在する問題系と内在する問題系が自覚的に語られていたことを確認しておこう。
  次にエイドリアン・フォーティー『言葉と建築』[ii]を見てみよう。この書で著者は18個のモダニズム、あるいはポストモダニズムの建築概念を説明する。この18個を眺めると建築に内在する概念と外在する概念に分かれることに気がつく、そして前者はモダニズムを構成する概念であり(機能、空間、形など)、後者はモダニズム後期あるいはポストモダニズムを構成する建築概念(記憶、歴史、使用者、など)であることが分かり、前者は建築に内在する問題、後者は建築に外在する問題と区別でき、ここでも二つの問題系が建築を作る概念としてそれぞれ重要であることを理解できよう。 
 この2冊から読み取れることは、近代以降、建築を批評する、あるいは作り上げる概念というものが存在しそれらは建築に内在する概念と外在する概念に大別できるということである。そしてこの内在する概念で作り得る建築を自律的建築、外在する概念で作り得る建築を他律的建築と呼びたいと思う。


自律的思考から他律的思考へ

  冒頭述べた、エミール・カウフマンの『ルドゥーからル・コルビュジエまで−−自律的建築の起源と展開』[ⅲ]ではカントの自律精神がルドゥーの建築を支え、そしてその自律性はモダニズム(ル・コルビュジエ)に受け継がれると結ぶわけであるが、ここでルドゥーの自律的建築とは建築に内在する論理でできた建築と言い換えても良いと思う。
 こうして生まれた自律的モダニズム建築にロバート・ヴェンチューリは異を唱えポストモダニズム時代の思想を牽引した。その主張は自律性を否定し、他律的に思考するものだった。そうした他律思考は建築やアートの世界だけに限られたものでもない。例えば政治的には弱い意思を民主的に束ねる思考法を水平的思考、強い統率的な思考を垂直的思考と呼び対比して使うことがある。例えばアントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『アセンブリー新たな民主主義の編成』[ⅳ]などで説明されているように、国家、地域を越えて人々が同じレベルで横につながり巨大な帝国に対抗しようとする考え方を「水平的思考」と彼らは呼んでいる。一見かけ離れて見える、建築やアート世界の他律思考と政治の水平思考に共通性がある。単独の強い思想に引っ張られる垂直思考に対して、多くの弱い思想の連結が強さに対抗できるという水平思考の考え方は、政治同様、アートや建築においても同質なメカニズムの中にある。しかし果たしてこうした他律的水平思考は現代において盤石ものとなっているのだろうか?

他律的思考から自律的思考へ

例えば『ヴァレリー芸術と身体の哲学』[ⅴ]で著者の伊藤亜紗は現代の価値観を民主的でオープンな「水平性」としつつ、しかし一方で水平性の過剰な尊重が垂直方向へ突出する私たちの可能性を抑圧してはいないかと警鐘を鳴らしている。彼女はモダニズム詩人ヴァレリーの可能性をこういう言葉で表しており、ここで「垂直方向への突出」とは自律性のことであり、伊藤はその可能性を再評価していると考えてもよいと思われる。
 また哲学においてはカンタン・メイヤスー『有限性の後で−−偶然性の必然性についての試論』[ⅵ]のなかで著者は事物に本来備わる性質を一時性質、意識が事物に付与する性質を二次性質とし、二次性質を事物の本質に還元するのではなく、一次性質から事物の本質を究明しようと考えている。これは今まで物は物に纏わる外部的な思考や影響などからその意味や価値を考えていたものを、逆転させ、物そのものに内在する意味や価値を再考しようとする哲学と言える。これは物の自律性を横に置き、他律性を重んじている昨今の風潮に対してその逆を再考することを提示する哲学として捉えることができるだろう。
 もう一つ例を上げておこう。アートの水平的思考である『関係性の美学』[v]を著したニコラ・ブリオーは近著『ラディカント』[ⅶ]においてモダニズムの普遍主義に対して、ポストモダニズムの多文化主義は最終的にはモダニズムのオルタナティブにはならなかったと批判した。というのも多文化のそれぞれをポストモダニストは本質化してしまったからだという。そこでブリオーは、普遍化と多文化の折衷に期待を寄せる。


自律的思考と他律的思考の中庸を解像度を上げてみる

 上記伊藤、メイヤスーの哲学、そしてブリオーの新しい美学は現代の他律性を相対化して自律性再考のベクトルをもっていると思われる。さてそんな状況の中で私が考えていることは自律性と他律性を中庸の解像度を上げながら双方に利する概念の抽出である。具体的には自律性を標榜しながら、その自律性装置で他律性を引き込める可能性の探求である。僕は『建築の規則』[ⅸ]を著した時に建築に内在する論理を抽出しようとして、建築は物と間で構成されるとして論を展開した。そして次に『建築の条件』[ⅹ]を書き、社会が建築を作るという書き出しで論を展開した。言わずもがなだが、前者は建築の自律性、後者は建築の他律性について考察した書である。そして近著『建築の設計力』[ⅺ]では設計には理念が必要で自分の理念は物と間としての建築に、もう一つ重要な構成要素として「流れ」を入れることであると主張した。流れは建築の自律的要素であると同時に建築に外在的要素である光、風、音、自然、人、物、動物などの動きを含意している。つまり建築の自律性と他律性を同時に主張し得る概念であろうと考えているのである。この概念を中心に据えて設計した建物として「運動と風景」呼ぶ住宅がある。これは都心の建築面積30平米程度の3階建ての建物であるが建物の中心に建物を上下する階段が織り込まれている。住人の建物内での運動(流れ)を前景化している。またこの流れは敷地の神楽坂という町の坂が流れ込んできたようにも見える。つまり建築の自律性と他律性がうまく結びついているのである。こうした幸運とも言える二つの問題系接続が二つの思考の中庸の解像度を上げることで見えてくるのだと思う。


参考文献
[ⅰ] ジェフリー・スコット著、坂牛卓、辺見浩久監訳『人間主義の建築:趣味の歴史をめぐる––考察』鹿島出版会 2011 (1914)
[ⅱ] エイドリアン・フォーティー著、坂牛卓、逸見浩久監訳『言葉と建築––語彙体系としてのモダニズム』鹿島出版会 2006 (2000)
[ⅲ] エミール・カウフマン著、白井秀和訳『ルドゥーからル・コルビュジエまで–自律的建築の起源と展開』中央公論美術出版 1992 (1933)
[ⅳ] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート 水島一憲監訳『アセンブリー新たな民主主義の編成』岩波書店 2022 (2017)
[ⅴ]伊藤亜紗『ヴァレリー芸術と身体の哲学』講談社学術文庫2021
[ⅵ] カンタン・メイヤスー 『有限性の後で–偶然性の必然性についての試論』 人文書院2016 (2006)
[ⅶ] Nicolas Bourriaud 『Relational Aesthetics』 Paris:Press du reel, 2002
[ⅷ] ニコラ・ブリオー『ラディカント—−グローバリゼーションの美学に向けて』フィルムアート社2022 (2009)
[ⅸ] 坂牛卓『建築の規則』 ナカニシヤ出版2008
[ⅹ] 坂牛卓『建築の条件』リクシル出版2017
[ⅺ] 坂牛卓『建築の設計力』彰国社2020


坂牛卓

1959年東京生まれ、建築家、東京理科大学教授、1985年UCLA大学院、1986年東京工業大学大学院修了、1998 年O.F.D.A. を主宰、 2007年博士(工学)、2005 年「リーテム東京工場」第四回芦原義信賞、 2017年「運動と風景」SD賞受賞など,  2017年『建築の条件』、2020年『建築の設計力』、2021年『白い壁』(監訳)、2022年『建築家の基点』など



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