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連続研究会報告/(レビュー)          第2回 建築デザインにおける社会性を巡って


日時:2019年3月9日 14:30-18:00
会場:法政大学市谷田町校舎5階マルチメディアホール
パネラ−:
 坂本一成「建築としての住宅における社会性」
 妹島和世「建築の地域性と社会性−実作を通して」
 ヨコミゾマコト 「文化的地域遺伝子と建築」
 青井哲人「能動、受動、中動:通路とその外」
まとめ:奥山信一
司会進行:下吹越武人
担当委員:奥山信一、下吹越武人、宮部浩幸


今回のシンポジウムは、建築論の問題群を探るべく企画された一連の研究会の第2回目にあたるもので、現実の建築デザインと学問としての建築論が乖離したかにみえる現状に対して光明を見いだす試みの一つである。
 
第1回目の研究会では、建築の自律性と他律性を巡って展開された。
まず、自律性と他律性を、開くか、閉じるかという水準で捉えると、開閉の対象の違いによってその様相は趣を異にすることを確認し、そもそも上記2種の概念は対立項であるのかどうかの議論が必要になることを確認した。
次に、形態論に焦点を絞ると、自らの論理を強固に構築する古典(ギリシャ、ローマ)は原則として自律と見なしうるが、しかし古典を範としつつ、その規則を方法化・共有化することを目指したルネサンス期以降の古典主義は、はたして自律と言えるのか?という疑問が生じてきた。建築の実体は自律していても、その規則の方法化は社会的な問題以外の何物でもないからである。また、そもそも古典でさえ、神話が成立していた当時の世界では、その形が極めて社会的な意味を担っていたと考えることもできるのである。
さらに、最も現代的なコンピューテーショナルデザインを活用したジェネレイティブな造形に関する検討では、設計のツールはツール以上の意味を持ち得るのか、また生成を促すプログラムを前提とした場合、それはデザイナーの主体性を外す試みと言えるのかといった疑問を前提として、コンピューテーショナルデザインにおいてプログラムの構築および初期条件の設定にデザイナーが関与しているとしたならば、はたして自律性/他律性の議論をこの場に持ち込むのが妥当か否かを考える必要に迫られた。
上記のような議論を通して、自律性と他律性とは、それぞれ別個に対立的な意味を担うのではなく、何かを主体(自)とした時に、その主体のフレームの外側に位置する他者との関係性によって決まる補完的な概念ではないかという想念が浮上してくる。主体を建築家とすればオーサーシップの問題に帰着し、主体を建築それ自体に置けばデザインのオリジナリティの問題に関わらざるをえないといった、極めて相対的な概念として自律性/他律性を捉えるべきかもしれない。
 
「建築デザインにおける社会性を巡って」と題した、第2回目にあたる今回の公開シンポジウムでは、他律性と密接に関わるであろう「社会性」について掘り下げる企画であった。

坂本氏は、建築のプラグマティックな水準に過剰に反応した近年の社会性至上主義(行きすぎた社会性)に対して警鐘を鳴らすことから議論をスタートした。原則として1家族に供される個人住宅にプラグマティックな水準での社会性は成立するはずはないが、住宅建築に社会性が存在する可能性は、批評性を付随させたものでしかありえないという逆説的な提言である。ただし、この批評性が過度な造形主義(フォルマリズム)と結合した時には、建築の全体性を失う。近年の社会性至上主義はこの過剰な造形主義への反発であるが、双方ともに坂本の言を借りれば「行きすぎた」観念は、建築本来の豊かさを阻害するという。ここで坂本のいう「建築の全体性」とは何を意味するのか?

妹島氏は、国内外で展開される自身のプロジェクトを平易な言辞で語ってくれた。妹島氏の主張は、建築は地域の環境に参画する存在であるべきだとするもので、最後の討論の場で難波氏がコメントしたように極めてナチュラルに響く言葉であった。しかし、妹島氏は手垢に染まったリージョナリズムやコンテクスチャリズムとは明らかに一線を画する方法でデザインを進めている点に改めて注目する必要がある。妹島氏は地域に根差した素材や形をそのまま借用することや、その翻案さえも忌避しているからである。彼女の産み出す先鋭的な空間や形が「地域の環境に参画する」という平易な言葉の背後に隠れた何かによって支えられているとしたら、その言語化は大きな課題として私たちの現前に投げかけられたといえる。建築のエステティックな水準を学的体系での美学とは異なった地平から言語化する必要があるのかもしれない。

ヨコミゾ氏は、社会は建築家が対峙する存在ではなく、建築家もその中に包含されることを前提に活動すべきであると主張した上で、いみじくも妹島氏から受け取った課題に応じる形で「文化的地域遺伝子」というキーワードを用いて自身のプロジェクトのデザインプロセスを提示した。それぞれの地域環境には建築が対応を迫られる膨大な要素が浮遊しているが、ヨコミゾ氏が唱える「文化的地域遺伝子」とは、それらすべてを指すわけではない。建築家が直感で掴み取った一つの事柄に限定して、それをドライブさせることを主張している。ここで重要なことは、なんらかのリサーチから「文化的地域遺伝子」が導出されるのではなく、あくまで建築家の直感力に託すという主張である。将来、建築設計の具体的なプロセスのかなりの割合をAIが占めるとしたらならば、最後に建築家の残された砦は、この直感力であろうとの提言である。一般的な方法化の枠外で立ち尽くす建築家の直感力を、社会的地平に引き戻す言語は果たしてあるのか否かは、重要な課題として残されたといえる。

3人の建築家のプレゼンテーションは多少の温度差はありながら、原則として建築創作の主題として「社会性」を提示するものであった。建築デザインを生業とする建築家ならば当然であるが、建築史家である青井氏は、社会性を建築の実践の問題として考察した。青井氏のいう建築の実践とは、建築が構想段階から設計段階を経て建設され、そして社会のなかで使用されることで価値を獲得していく一連のプロセスのことである。そこでは<中動態>というキーワードを俎上にあげて論を展開した。

能動/受動という主体と客体を対立軸に据える形式は、社会の先導が建築家の使命であったモダニズム期には反りが合ったが、現代の社会的状況では、すべてが主体となりうる能動/中動という形式で思考を進めるのが妥当との見解である。すべてが主体となれば、自ずと建築家という存在は設計を取り巻く烏合の衆の一員と一旦ならざるを得ない。この辺りの推論はヨコミゾ氏の主張する社会の構成員の一人としての建築家像と歩調が合う。しかし、ヨコミゾ氏の提示する建築家の「直感力」への期待と多少共振するが、青井氏は烏合の衆の一員であった建築家が、建築が立ち上がり社会の中に開かれる寸前で上記の回路を<切断>し、いわゆる「建築家」として署名をする瞬間を<第3の社会性>として容認している。1970年代に「普通の建築」を標榜し、匿名性を是とする建築家に対して、篠原一男が「匿名性を主張して有名になる建築家」と揶揄した。その構図との近似を払拭しうるか否かは微妙であるが、現代的状況を的確に捉える視点であることは論を待たない。建築の設計に関わる多数の関係者の一員として身を沈めながら、最終段階で署名を断行することで「建築家」として浮上する<切断>手法を、青井氏がアイロニーを込めて評しているのか、それともそこに新たな社会性を携えた建築家像を見ているのか、その辺りに対する態度表明は宙づりにされた感が否めないが、しかし、最後にメタレベルの視点として「切断しない建築、あるいは弱い切断を連鎖させる建築」の可能性を提示した。これは、坂本氏のいう「批評性としての社会性」そして「建築本来の豊かさを担保する全体性」という概念と、どこかで触れ合う視点の提示ではないかと思われた。

今回の研究会(シンポジウム)を通して実感したことは二つある。一つは、現代の建築デザインを巡る言語は、それらを決定論的に論じることには生産性はなく、相対的に意味が変質することを前提として位置づけることの必要性である。そしてもう一つは、建築デザインを巡る言語(概念)を突き詰めた先には、自明であるかもしれないが必然的に建築家像に帰着せざるを得ないということである。上記のことは「社会性」という今回のテーマゆえに生じたことか否かは、今後の検討の余地として残しておきたい。(奥山信一)

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