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建築論の問題群03〈建築の社会性〉 現代建築(における社会性?)の5原則

小川次郎(日本工業大学 教授)
土佐谷勇太(建築家)

某月某日・都内某所の某設計事務所にて

【introduction】

〈所長〉いやーこの間のプロポ、またダメだったなー……。無念。

〈所員A〉これで去年から足かけ6連敗ですか。さすがにメゲますね。

〈所長〉提出した直後は「控えめに言って最高傑作だな。この案を越えるものはまず無かろう。」くらいの勢いなのに、1次審査に引っ掛からないこともしばしば……。

〈所員A〉応募要項からテーマを読み込んで、審査員の傾向を読み込んで、地域の現状を綿密にリサーチして、他の案との差別化を図り、渾身の空間的提案をした上で、の結果なので、いささか途方に暮れますね。最優秀に選ばれたのが「?」と感じる場合はなおさら……。

〈所長〉まあそうは言っても負けは負け。別に反省はしなくてもいいけど、単にわれわれの提案能力の問題だ、と切り捨ててしまうのも学びが少ない。特に、最近何か公開審査の場でのやり取りにスレ違いみたいなもの感じないか?前提として、審査員は社会を代表して市民(ユーザー)の声を届ける立場だとすると、社会が考える「建築かくあるべし」という期待や価値観と、設計者(われわれ?)が考えるそれとの間に齟齬がある可能性が高いな。とすると、せっかくだからコンペやプロポに勝つ方法というより、「いま世の中にどんな建築が求められているか」を客観的に考えてみないか?自分たちの建築観を相対化する意味でもさ。小難しく言うと、「現代における建築の社会性を考える」ってか?

〈所員A〉難しいというか、あまり気の乗らないテーマですね。その件について喋れと?オノレの身を切る覚悟が必要そうですし、何なら1年くらい放置したい気分です。それに言いっ放しになりそうな予感アリアリですが……。所長がそう言うならやってみましょうか、どうせ仕事ないし。
せっかくですから掛け合いのルールを決めませんか?「現代建築における社会性」なるものについて語り合うということですが、われわれの場合いずれにせよコンペやプロポという媒体を通して表現することになるわけですから、そのための道筋として話し合うと上手くいくのでは?だとしたら、例えば日常的に、あるいはプロポの審査過程を通して市民は建築というものをどう受け止め、どこに価値を置いているかを「(市民は建築を)どう、受け止めているか?」、それらを含み込んだあり方を設計者がいかに提示するかを「(設計者は建築を)どう、伝えられるか?」という視点から、現代における建築のあり方を考えてみると有益では?そして、ユーザーと設計者、それぞれの視線が交差する地点に現代建築の社会性なるものを探ってみようというわけです。いかがでしょうか?

〈所長〉なるほど、「ユーザー目線と設計者目線の交差点に現代建築の原則を探る」、ってところかな。あいかわらずメンドクサイ奴だな。よくわからんがまあ好きにしてよ。

【原則1・体験】

■どう、受け止めているか?
実際の空間体験を生むものとして。建築などの人工空間に限らず、自然などからも体験価値を受け取ることがある。むしろ多くの人にとっては自然からの経験(センス・オブ・ワンダー)が多い。大きい/広い/迫力があるなど。

■どう、伝えられるか?
原則、設計のコンテクストによらない価値だが、実際の経験に依存しているため、代替表現ではリテラシーがないとしばしば不十分な伝達になる(ユーザー側が評価不能に陥る)。パース・投影図や、アナロジー(○○のような…)が用いられることが多い。

〈所長〉これはわかる。いわゆる面白い空間、「これはすごい、見たことない、楽しい、気持ちいい!」という体験に価値を置くということだろ?感覚的にはわかりやすいけど、まだ実現していない状態を何らかの言語(空間/コトバ)を使って伝えるのはかなり難しいよね。

〈所員A〉そうなんですよね。設計者目線から、構想している空間がいかに素晴らしいもの、新しいものであることを予想していたとしても、それをユーザーに伝えるのはとても難しい。リテラシーも大分違いますしね。3次元的な表現、アイソメ、アクソメ、パースひいては「○○を思わせる…」とかいったコトバを駆使して伝えようとするわけですが、それでもイメージしてもらうのはある程度限界がありますよね。

〈所長〉しかし、これを「空間」と言わずに「体験」と言うところがミソだよね?何か意図しているんでしょ?

〈所員A〉おっといきなりジャブ差してきましたね。「空間」と言ってしまうとそれは設計者的視点、外側から第3者的に対象を観察している感じがしませんか?ユーザーはそんな風に事物を対象化していませんよね、おそらく。むしろその中に入り込んで楽しむ、全体的な経験を欲するものかと。

〈所長〉なるほど。ここのところよく「モノ消費からコト消費へ」なんていうことが話題になるよね?音楽でいえば、もうCDはまったく売れないけどライブへの参加者はどんどん増加しているとか。コロナが落ち着いてから大規模なフェスも順調に回復してるいみたいだし。ツーリズムでいえば、観光地の名所旧跡を見物するのはもう十分だけど雪国の神秘的な夕暮れは体験してみたいとか……。

〈所員A〉建築の世界だけが、「こういうスペースが素晴らしいです、見るだけでなく実際に体験してもらいたいです」といっても、なかなか伝わらないどころか、むしろ胡散臭い目で見られがちなのはどうしたわけでしょう?「そんなの必要ない、わかんないよ」くらいの勢いで否定されがちですよね。

〈所長〉さっきのリテラシーの問題に起因しているのかもしれんが……。
キミの立ち位置が少し見えてきたかも。建築におけるこの【体験】的価値をポジティブに評価したいということでしょうか?

〈所員A〉単なる設計者の独りよがり的な「素晴らしい空間」ではなくて、何かもう少し広く共有できる【体験】的価値があり得るとしたら、かなり強力なコミュニケーション・ツールたり得るのではないかと。まだあまりコトバにはできないんですけど、むしろ「まだ見ぬ公共空間の可能性」くらいに期待はしてはいるんですけどね。

【原則2・道具】

■どう、受け止めているか?
現状を改変する役割をもつものとして。不便さを改善する/効率的に生活・生産できるようにするなど、具体的かつ定量的な成果が求められる。

■どう、伝えられるか?
実空間を伴わなくても(空間的な表現を用いずに)意図を伝えることが可能。むしろ、簡略化/単純化を行い定量的/定性的に伝えた方が共有しやすい場合も。社会的な合理性(みんなそう思うはず)や身体的な特性(使い易い)に紐付いた、原則ローコンテクスト。

〈所長〉これも想定の範囲内だな。要するに用途、プログラム、使い方と呼ばれるものね。「何らかの目的(行為)を満たすための道具としての価値」という側面ね。若い人の中にも、「みんなにとって使い易いという空間というものがあると思うんです」なんて言う奴が案外いるものね。「使い易い/難い」なんてかなり感覚的な指標で、個人差も大いに影響しているはずなのに、何か「使い方」が出てくると普遍的な価値みたいに思われがちだよなー。

〈所員A〉まあ結構幻想な気もしますけどね。でも、共有可能な価値の中では最も妥当なチョイスとも言えます。まずはこの辺である程度合意しておく、手を打っておかないと、ユーザーと設計者がお互いまったく寄り添えなくなる恐れがあるというか……。

〈所長〉出身地が同じとか、同じような教育を受けてきたとか、近い文化的コンテクストに所属していればいるほど共有しやすくなるものだしね。何となく「同じ物差し持ってますよね?」という暗黙の了解から話が始められそうな安心感はある。

〈所員A〉考えてみれば、これは建築プロパーの人間なら大学の授業で真っ先に叩き込まれる価値観ですね。この価値観を前提として、コストその他の「確からしさの高そうな」価値を絡めて理詰めで来られると、われわれとしてはかなりお手上げ状態になりがちです。かつての大手設計事務所がオハコにしていた戦法と言えるでしょう。まあ最近はかなり搦め手も駆使するようですが。

〈所長〉これって役所の評価とも親和性は高いよね。公共建築の場合、市民に納得してもらえるように説明しなければならないわけだから、空間がどうとか言ってないでもう少し伝達可能なコトバで説明してよ、と。

〈所員A〉かもしれません。立場からの視点という意味ではまったく正しいわけですし。このトークは、何となく公共プロポを背景として始まっているようなところがあります。そこでプロポ審査員=市民(ユーザー)代表という位置付けで話してはいますが、厳密に言えば審査員・市民・役人はそれぞれ微妙に異なるプレイヤーのはずです。そして、それぞれが審査の進行に応じて重なったりズレたりするところがさらに厄介だったりする。最終的にはそうした揺らぎの重なりにそのプロポ=建築における社会性が表れる、ということなのでしょうが。

【原則3・宝石】

■どう、受け止めているか?
威信材(権力を象徴する財物を指す文化人類学の用語。王冠/トロフィーなど)の役割をもつものとして。社会制度や倫理観を共有していれば原則共有可能な考え方で、大きな母数で共有されているステータス。金持ち/センスがある/円満な家庭など。

■どう、伝えられるか?
わかりやすく共有されやすい比喩や物語、ストーリー等を用いた抽象化により、(万人に)共通する希少価値を提示する。比較的ローコンテクストだが、社会的、文化的な層の違いにより重みづけに差が生じる(受け取り方が異なる)。

〈所長〉だんだんわからなくなってきたぞ。ナニコレ?

〈所員A〉この辺から建築実体としての価値を離れて、徐々に意味の世界に移行していきます。例えばこの間のプロポ憶えていますか?例の巨匠に負けてしまったヤツ。最優秀案はもちろん素晴らしい提案ではあったのでしょうが、審査員が何を求めたかを深く推察する必要がありそうです。そこには「ウチらのまちにもそろそろ立派な建築が欲しいよな」という側面はなかったのか?この「立派な」というところが実に【宝石】的なパワーワードです。「見た目の良い」「バエる」最近だと「SDGs的な」でも良いかもしれません。実際の判断基準を厳密に解明することは困難ですが、建築自体の内容ではなくあくまで建築のあり方、見え方、威信材的な内容が求められたとしてもおかしくはないでしょうね。

〈所長〉ただの負け惜しみに聞こえなくもないけど。例えば「立派な」という価値が具体的には何を指しているのか、明確に言い当てるのは難しいよね。それくらい曖昧模糊とした内容ではあるのだろうが……。

〈所員A〉確かにその難しさはあります。しかし、われわれが一生懸命、「このまちにとって…」とか「まちの人びとにとって…」みたいな切り口で、ヒューマンスケールの空間における居心地の良さとか、街並みの中での建築の佇まいについてプレゼンしても、審査員には一向に響いていない感じをもちませんでしたか?

〈所長〉確かにそうだな。そもそも最初に「最近何か公開審査の場でのやり取りにスレ違いみたいなもの感じないか?」と言ったのは、そこに引っ掛かっていたんだよね。

〈所員A〉同感です。何か根本的なボタンの掛け違いというか。私たちは必死に建築の内容自体を説明しようとしたのですが、ユーザー代表たる審査員が求めていたのはそこじゃない、あくまで20世紀的な公共建築の価値観に連続する「立派な建築」だったのではないかと……。

〈所長〉そのことをして、建築における【宝石】的側面というわけね。

〈所員A〉まあそうです。さらに言えば、【宝石】的価値は、建築自体の場合もあれば設計者が該当する場合もあります。例えば「あの雑誌(建築専門誌ではない一般誌)で大きく取り上げられた建築家」のような場合もあるでしょう。最近、アメリカのショービズ界に関する面白い発言を見つけました。「何をやっている人かよくわからないけど、有名であるという理由で有名な人」が増えているという指摘です。これに準えると、「それが何なのかよくわからないけど、立派(そう)に見える建築が立派な建築」と。
結局の所、極めて流動的な内容である【宝石】的価値観が、SDGsやSNSバエのような多様性を帯びながらにわかに前面に表出してきてはいないかと。

【原則4・あそび】

■どう、受け止めているか?
日常性から逸脱した判断や振る舞いを許容するものとして。ルールを共有している集団にとっては真剣で大切だが、あそびのルールの外側からは、時に不真面目でくだらない価値に見える。ニッチなルールの共有が前提としてあり、その意味ではハイコンテクスト。ルールを共有する母数が比較的多い「伝統」や「街並み」などから、「セカイ系」に類似する極めて限定的な母数に支えられる【あそび】価値まで、多様なルールが存在する。

■どう、伝えられるか?
あそびに参加するためのルールや世界観を提示する。その際、正しいか否かは必ずしも問題とされない。例:「地域における伝統的な形態」、「自然のような建築」など。建築に限らず行われることで、イマジナリーな価値観に没入させることで達成される(映画や文学、マンガにおいて、「別の世界線」への現実味を感じさせることに類似する)。

〈所長〉うーむ……。いよいよ現代における建築表現の本丸に迫ってきた感じだな。その時のプロポの要望に対して、意外性のある【あそび】がハマると、受け取る側としては世界が一気に更新される、あるいはされかたかのように錯覚する可能性がある、と。そもそも【あそび】自体が日常性から乖離した意外性に根差しているともいえるわけだし。

〈所員A〉ザッツライト。みんなどこかで魔法にかかりたい、目に見える社会からフライアウェイして新しいルールで新しいあそびを始めたい、と潜在的に思っているわけです。現実だけを見つめて生きるのはあまりにツラいですからね。冷静に考えるとそのルールがいかに突拍子もない世界観に基づいていたとしても。「人間は見たいものしか見ない」という例えもありますし。
最近のゲームはファンタジーワールドを舞台にしたものが多いの知ってますか?「ここは不思議の国です。この国のルールは…」という建て付けで始まるわけですが、そもそもその不思議の国とは何なのか?どういう前提でそんなことが言えるのか??なんていうことは問われない。問うてはいけないのです。あくまでゲームですから。その前提を受け入れたうえで提示されたルールに身を委ね、次々とステージをクリアしてゆく。そこに快楽がある……。何かに似てませんか?

〈所長〉待てよ?ここまで話してきた。【体験】〜【あそび】って、まんま建築におけるローコンテクスト〜ハイコンテクストに対応してないか?一般的、共有可能な切り口から特殊で個人的な切り口まで。これらのどこに重心を置くかで、その設計者の社会に対するスタンスが決まると言えそうじゃない?【体験】【道具】【宝石】まではまあユーザー目線と共有しやすい、あるいは共有できる幅があるとして、【あそび】はどっちに転んでもおかしくない、やり方によってはむしろ反感を買うリスクも大いにありそう。つまり、結果的にユーザーと設計者の間に大きな断絶を生み出しかねないのではないかと……。

〈所員A〉そうなんですよ、さすが所長ついてきてますね。【宝石】と【あそび】のヒリヒリする境界線をいかにまたぐか、リスクを取るかに、現代におけるプロポ提案者の真価が問われるのかもしれません。一方でハズすと大きいし、ハズい。審査する側の振れ幅も大きい。「どこまで大胆に遊べるか?」毎回毎回のプロポがリスクの大きなゲーム化しているのかもしれません。ことの良し悪しは別として。
なので、プロポにおける【あそび】的価値観の提供が見事で、これまで見たことのないような世界観を提示してくれた(かに見える)もの、さらにそれが実現したかのように感じさせてくれる建築に、われわれが酔わされてしまうことがあるのかもしれません。一方で面白いのは、その独特な世界観・ルールから外れた視点で見直してみると、どうにも理解しがたい、パラレルワールドにおける空間のように感じてしまうこともある点です。あたかも魔法が解けたかのように……。この辺が【あそび】を前面に打ち出した建築の魅力であり、危うい所でしょうね。現代における新たな社会性ガチ勢、といって良いでしょう。
さらに、この【あそび】的価値観信者は比較的建築における新興勢力と言えます。瞬間的に面白く見えるものではありますが、〈時間〉という審問官による長く厳しい審査に耐え得るか、「現実社会による裁き」といっても良いかもしれませんが、この点については今後予断を許さないとだけ言っておきましょう(キッパリ)。

〈所長〉あ、急に厳粛な口調になったね。何か恨みが深そう、知らんけど。

〈所員A〉ところでですね所長……。これはコンペ、プロポで通用するかどうかはまた別の話、おそらく通常通用しないのですが、こと建築における社会性のオルタナティブとして、この【あそび】に似て非なる強力な一手、いわば〈ワイルドカード〉があるのではないかと……。

【原則5・日記】

■どう、受け止めているか?
他者との共有を前提としない孤立したもの(「私(作者)には世界がこう見える」)として。場合によっては、社会的な規範や倫理に反する場合すらある。個人を社会の構成要素に還元しようとする力に抗う魅力がある一方、その反社会性?から声を大にして評価することが困難な場合もある。

■どう、伝えられるか?
基本的に「ひとりごと」なので、特定の知り合いの間で漏れ出る程度。また、建築という表現分野の特性上「カルト化」することはほぼ無い。私小説的に編集して表現する可能性も無くは無いが、その場合魅力は半減する。

〈所長〉日記、か。なるほどねー。何かホッとするのはオレの世代のせい?まあ言ってみれば作り手の「独白」「モノローグ」みたいなものね、誰かに聞いてもらうことを前提としていない。それってつまり「思考癖」みたいなものとも言えない?もうちょっと高級な言い方をすると「作家性」とか?案外個人的な「思い」に近いものの可能性もあるな。てか何か古いな……。

〈所員A〉まさしく。まあ言い様によりますが。【日記】にこだわる作り手は、有り体に言って時代遅れといえるでしょうね。現代においては鬱陶しい存在とも言えます、特にユーザー目線からは。案外、自身の正当性に執着するうえそのあり方を執拗に主張しがちですし。
ところで所長、「パンツを脱ぐ」っていう表現知ってますか?アニメ批評なんかで使われる言い回しなのですが、アニメ作家が「世間的な常識や羞恥心を脱ぎ去ってオノレの価値観をさらけ出した表現で勝負する」ことのようです。評者が「アイツはパンツを脱げる作家だ」とか、「とうとうアイツもパンツを脱いだ」みたいな言い方をするみたいですね。日記からもう一段上の表現への飛躍はこういうことかも。

〈所長〉しかし、いずれにせよもしそれが建築の世界でも当てはまるとしたら、それって割と古典的な建築家像じゃないの?

〈所員A〉そうとも言えますね。一方で、この国における日記文学の書き手は、日記という個人的な記録の体をとりながら、他者に読まれることを前提として記述してきたという指摘もあります。それができたら極めて戦略的ですよ。実はパンツを脱いでいるにもかかわらずギリギリパンイチに見えるという……。

〈所長〉逆ヤスムラ、か。個人的な「思い」の表出としておきながら、実際はそのアイデアで世界を包摂できる、したい、いやしてみせるというわけね。それを設計や言説に滑り込ませると言うことか。かなり高度なテクニックが要求されそうだな。うまいこと自己と社会の境界線を漂うように表現できることが一流の建築家たる由縁、と。まあその辺が広い意味でのレトリックというものであろうが。
でも、それってプロポに勝つということとはだいぶ違うんじゃ……?

〈所員A〉そうかもしれませんね。あまりあからさまに思いをぶちまけられても、見る人は困惑するだけですから。特にプロポの審査会場でパンツ脱がれてもみんな困るわけで。

【postscript】

〈所長〉いやー喋れば喋れるもんだね、こんな厄介なテーマで。これだけフリートークが続くというのも、いかにわれわれにストレスが溜まっているかということだな。

〈所員A〉まあヒマですからね。あまり何かが解決した気はしませんが、日頃の鬱憤を晴らすという意味ではそれなりに意味ある時間になったかと。しかしこんな話、われわれ以外に関心ある人いるのか?というのもありますけどね。
それより社長、サッサと営業行ってきてくださいよ……。

小川次郎
日本工業大学教授。1990年東京工業大学工学部建築学科卒業/1996年同大学大学院博士課程満期退学/1999年日本工業大学建築学科講師/2009年より現職 博士(工学)

土佐谷勇太
建築家。2011年⽇本⼯業⼤学⼯学部建築学科卒業/2013年同大学修士課程修了/2013~2017TNA勤務/2018年より他の建築家とのコレボレーションによる設計活動と並行して、ひまファクトリィ主宰/2023年より日本工業大学非常勤講師 修士(工学)


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