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【小説】桜の花びらの魂は

 それは久しぶりの外出だった。どうやら私の知らない間に春が来ていたらしい。冬に来ていたパーカーではどうも暑く感じてしまう。外気温は二十五度、もはや夏に近い。
「先輩、その格好暑くないですか?」
「私の知らない間に春が来てたんだ」
「もう、たまには外に出ないとですよ」
「実際君に誘われなきゃずっと引きこもってたよ」
「じゃあまた誘います」
 そう言って彼女は前を歩く。彼女はいかにも春らしい格好をしていた。なんだかこんなにも世間からズレている私の隣を歩かせるのは申し訳なくて、彼女の少し後を歩いた。
「桜、もうこんなに咲いてたんだ」
 視線を上にやると、少し葉桜になりかけているソメイヨシノの木があった。
「結構前から咲いてましたよ。今はもう散っちゃって、満開って感じじゃないですけどね」
「それでも綺麗だ」
 私は地面に散らばった桜の花びらを見て言った。地面を埋め尽くす勢いで広がるそれを踏みながら進む。なんだか申し訳ない気持ちになった。
「この子たちの魂はどこに行くんだろう」
 少し茶色くなっている桜の花びらを見て、思った。
「花びらの、ですか?」
「ごめん、変なこと言ったね」
「いえ。私、そういうの、好きですから」
 彼女は春のように笑ってそう言った。優しい微笑みだった。
「思えば桜って、咲いて、散って、その後どうなってるのか、知らないなと思って。気がついたら桜のことなんかみんな忘れて生きてるよな、って」
「みんなそこまで桜のことなんか考えてないんですよね、きっと。綺麗だから目に入るだけなんですよ。散った後のことなんか忘れて、みんな忙しい日常に戻るだけです」
「でも、そんな忙しい日常の中に入り込む桜の美しさってやっぱりすごいなと思うよ」
「それは確かに。桜って、すごいですね」
「そのすごさが、美しさが信じられなくて、桜の樹の下には死体が埋まっているって思うのも、私は納得できるな」
「じゃあ、掘り起こしてみます?」
「流石にそんなことはしないよ」
「あははっ、冗談です」
「じゃなかったら困るよ」
 私はしゃがみ込んで、誰かに踏みつけられたであろう花びらを一枚、手に取った。
「植物も生きてるというなら、きっと魂が宿っている」
「それ、持って帰るんですか?」
「どうしようかな」
 そう言って手のひらの上に乗せて考えていると、その一枚の花びらは風に吹き飛ばされてしまった。
「あ」
「まあでも花びらは沢山ありますし」
「あの子じゃないといけない理由なんてなかったけど、それでも、じゃあ別のでいいやともなる気が起きないな」
「そうなんですね」
「まあ、いいさ。こういう運命だったのかもしれない」
 私は一つの花びらに宿る魂のことを思った。風に吹き飛ばされていった、あの一枚のことを。
 きっといつか、土に還る。もしかしたら掃除されて、無意味に集められて燃やされるかもしれない。それがどうであれ、この春限りの命だ。
 私はふと、輪廻転生のことを考えた。もしかしたら来年にまた咲き誇る花たちは、この子たちの転生なのかもしれないと。四季が巡ると同時に、この子たちの魂もまた同じところに還るのではないかと。
「来年もまた、桜を見よう」
「今年もまだ見れますけど、来年もまた来たいですね」
「思ったんだ。人も花びらも、同じ魂なら、忘れないで思いを馳せることに意味があるんじゃないかって」
「先輩は夏秋冬も桜のことを考えるんですか?」
「できる限り、そうしようって思ったんだ」
「随分と桜のことが気に入ったんですね」
「誰にも想われることのない魂はきっと淋しいよ」
「桜の花びらに感情移入しちゃった感じですか」
「一時は綺麗だのなんだの言われたとしても、踏みつけられて、忘れられる存在。悲しいじゃないか、あまりにも」
「……私は先輩のこと、忘れはしませんよ」
「死んだとしても?」
「絶対、時折思い返します」
「時折ね。そのくらいが丁度いいのかもしれない」
「先輩の魂はどこに行くんですか?」
「どうだろう。海にでも行くかもしれないね」
「それなら、桜の花びらはどこに行くんでしょう?」
「もしかしたら、また、人々の顔を見に同じところへ還ってくるかもしれない」
「桜から見た人々ってどう映ってるんでしょうね」
「きっと輝いてて、楽しそうで、愚かなんだと思うよ」
「花見に来る人たちのことですからね」
「なんだか神様みたいだな」
 私は桜の樹を見上げた。神様、そこにいるんですか、と心の中で言う。そこには確かに魂の存在を感じられた。
「ここに留まりながら、人々を見下ろし、見守ってくれる存在、か」
「神様。確かに、そんな感じがしますね」
「手を合わせておこう」
「それなら私も」
 そして二人、桜の樹に向かって手を合わせた。はたから見たら変な光景として映っただろう。
「よし、じゃあどうします?」
「コンビニで酒を買って花見でもするかい?」
「ちょっとそれいいですね。しますか」
「しよう」
 そして私たちは近くのコンビニで缶チューハイとおつまみを買って、桜の樹の下で花見をした。
 酔った頭で桜の花びらの魂、神様のことを考えていた。なんだか「ひとりじゃない」という感覚がした。
「桜の花びらの魂はきっとここに還る」
「じゃあ花束の花びらはどうなるんですか」
「また新たに生まれてくる子たちに還るさ、きっと」
「じゃあ人にも同じことが言えると思います?」
「千年後の未来なら、あるかもしれないね」
「その頃にはもう人類が滅んでそうですけどね」
「どうかな。わかんないよ〜?」
「どっちにしろその前には先輩も私も死んでますけどね」
「それなら、来世でまた会えるといいね」
「あははっ、そうですね」
 彼女は私の数少ない友人と言えるだろう。冬の格好で春を出てきた私を変だと言わずに受け入れてくれる優しい彼女は、まるで春そのものみたいだった。
 春は希望に溢れすぎて眩しいくらいの季節だと思う。それと同時に、希望がまるで持てない人たちを置き去りにしていくような、そんな季節。だから私は、春をそこまで好きになれない。春特有の暖かい陽気に灼かれるような感覚がする。それなら私は、彼女にいつか灼き殺されてしまうのだろうか。それならそれでも構わないような気もする。私はどこか最初から諦めていた。人と分かり合ったり、対話したりすることを。それでも適当な距離感を分かち合える彼女とは、きっとこのままでいいと。分かり合うことも、対話したりすることも、できなくたっていい。それでも一緒にいることができるのであれば、きっとこれが正解だ。
「私はいつか君に殺されちゃうのかな」
「どうして?」
「君の眩しさに、殺される」
「私は全然眩しくなんかないですよ」
「私の目にはそう映るんだ」
「……なんか、複雑です」
「君には感謝してるんだよ。でも、いつか、そんな日が来るんじゃないかと思ってしまうんだ」
「魂のすれ違い、ってやつですか?」
「すれ違いとは違うな……なんだか、呑まれてしまうような感覚がする」
「呑まれる……」
「君の存在が私を否定するような」
「私はそんなことしませんよ」
 彼女はキッパリそう言った。私はなんだか少し怖くなってしまった。小さく生まれたその恐怖心を誤魔化すために、酒をごくりと多めに入れた。
「私の魂はあまりにも小さすぎるんだよ」
「……先輩って、花吹雪に攫われそうな感じがします」
「いっそのこと攫って欲しいけどね」
「やめてください。それなら私が攫います」
「愛の告白?」
「もう、冗談はやめてください」
「少し揶揄っただけだよ」
 私ってそんな風に見えるかなあ、などと思った。確かに私はいつ死んでもおかしくないような人間ではあるけれど、儚さとは程遠いイメージがある。いや、でももしかしたら第三者視点はそのように見えるのかもしれない。なんだっていいことだけれど。
「桜に攫われるって、なんだか神隠しみたいだね」
 彼女は何も言わなかった。
「花びらの魂に私の魂を掬ってもらえるなら、これ以上に幸せなことはないかもしれない」
「先輩」
 彼女は私を見つめてこう言った。その顔は少し赤かった。
「あなたは誰にも奪わせない。それが例えあなた自身であったとしても」
「……愛の告白?」
「私は本気ですよ」
 愛の告白じゃないか、と思った。
「私のことを眩しいと言うなら、その眩しさであなたを救いたい。あなたを光に包んで、守りたい」
「希望的な言葉だね」
「私じゃダメですか?」
「そんなことはないよ」
「それなら、私があなたの魂を救います」
 彼女はキッパリそう言った。真剣な目で、私をまっすぐ見つめてきて。私は少し目を逸らしてごくりと酒を飲んだ。
「神様が見てるよ」
「見せつけてやります」
「愛が深いね」
「はい」
「否定しないんだ」
「だって私、先輩のことが好きですから」
 三度目の愛の告白に、私は何も言い返せないでいた。
 彼女はどこまでも真っ直ぐだった。彼女のキッパリとした物言いは私の心臓を貫くようだった。
 私はどこまでも歪んでいた。私の無言の態度は彼女との間に壁を張るようだった。
 いつまでそういう風に言ってられるのかと疑ってしまうのは、長年の積み重ねのせいだ。
 私の魂は救われない。きっと彼女にもできないことだと思った。それでも、ほんの少し、ほんの少しだけ彼女に魂を触れられた。引っ込めた手を掴むようにして、彼女は私に触れてきた。私は拒めなかった。
「私は君が思ってるような人じゃないよ、きっとね」
「それでも構いません」
 君がよくても私がよくないんだよ、とは言えなかった。
「いつか私、あなたを救ってみせる」
 そう言わんばかりの目をしていた。
 風が吹いて、ころころころと桜の花びらが転がっていった。その魂のひとつひとつと同じように、私の心も転がっていくようだった。ぽとん、と落ちて、止まって、また吹きさらされる。いつか雨にもさらされて、踏んづけられて、それでもまだ、息をする。最後まで、息をする。
「最後には救われるのかな」
「ええ、きっと」
 私はなんだか泣きそうになってしまった。
 桜の花びらの魂のことを思った。私のこれからのことも。
 春は眩しすぎる季節。
 地面に敷き詰められた花びらたちは、木々の間から差し込む陽光に照らされていた。

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