見出し画像

【小説】『束の間の夢』

 これで何本目かわからない煙草を吸い終わった後で、私は限界を迎えた。慣れないことをしたせいか嘔吐反射の勢いで掠れた咳が数回出て、「情けない」とこれまでの全てに対して思う。自分の脆弱さを理解していたつもりが、”つもり”でしかなかったことを突きつけられて、私は倒れる。物理的にも、そうでない意味としても。
 荒くなりそうになる息を抑えて、思考を止め、じっと耐えてみせる。肌を滑らせる冷たくなった風と、私を襲う何かから。
 本当に、秋は嫌いだ。夏が終わってしまったってこともあるし、単純にこの寒さに耐えられない。寒さは敵だ。どうしても人肌が恋しくなってしまうから。意図して淋しさの中に飛び込むのと、自然にそうさせられるのとでは、大きな差がある。私は、想定外の出来事に順応できない不器用な人間なのだ。「情けない」とまたこの言葉が出てくる。
 自身に向けられた攻撃性に苛立ちを覚え、強く爪を立てては頭を掻きむしる。奥底に沈んでいたはずの感情が喉元までに迫り上がってきては、また吐き気が。苛立ちを知覚する前に喉元を強く締め付け、どうにもならない感情を咳として吐き出させてやる。
 情けない、本当に情けない。そんなことをしたところで意味なんてないのに。くだらない自傷行為をしたところで情けなさは加速するばかりで私の心は掻き乱されるだけだ。「なあ、一旦落ち着けよ」と理性的な私の声がして、意識的に深呼吸をしようとする。吸って、吐いて。少しだけ落ち着いて、訳もわからず涙が出てきた。
 自室のベランダの前。死体のように倒れ込んだ私は、淡い夢を見る。
 ここではないどこか遠い場所にいつの間にか立っていて、綺麗な景色に見惚れるまま、私はどこかへと歩んでいく。そこで突然”君”と出会って、手を取り合ってどこまでも突き進んでいくんだ。その先に美しい死があれば尚良い。百合の花を敷き詰めた密室に眠ってそのまま窒息死するような、そういった美しい死があれば良い。”君”はずっと私の隣に居てくれて、そんな”君”と手を繋いだまま死ねたなら__、などと考えて、紛い物の多幸感に浸る。こうした妄想は、もはや癖というよりも習慣に近い。
 無意識のうちに瞑っていた目を開き、環境音に耳を澄ませる。どこか遠くで鈴虫が鳴き、鳥も鳴いている。ガタガタと工事の音、ピーッピーッと大型トラックがバックする音、ブーーンと車が通り過ぎる音。様々な音が入り混じっていて、その全てを拾い切れない。意識をしなければ静かな空間でも、意識を向けるだけでなんだか騒がしく感じる。
 段々とそれらの音を喧しく感じてきた私は、這いつくばって乱暴に窓を閉めた。そして壁際に設置してあるベッドに潜り込んで、布団を被り、毛布を強く抱き締める。
 なんだか今日は調子が悪い。いや、調子が悪いのはいつものことだけれど、いつも以上に調子が悪い。その原因は明確なようで、明確じゃない。それは私の根本的なところにあるのだけれど、私がこうなってしまった原因には様々な過去があったせいで。でも、一つ一つそれらを並べたところで整理できるものではない気がするし、きっとそれらは__、ああ……なんだか考えるのも面倒になってきた。きっと煙草を吸った後だからだろう。妙に頭が回るようで回らない。回らないでくれた方が私としても助かるのだが、この癖はどうしても抜けそうにない。もはや病気に近いものだ。深呼吸のような溜息を吐いて、頭の中に浮かんできた言葉を殺した。
 思考を一旦放棄した私は、イヤホンを耳に差し込み、スマートフォンで適当な音楽をかけ、耳が痛くならない程度の最大音量でそれを流す。歌詞のひとつひとつを汲み取るようにして、頭の中を美しい言葉で満たそうとした。抱き締めた毛布の暖かさが、なんだか人肌のように感じられて、薄らと涙が出てくる。

 私はどうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。
 多幸感の後味に、私は呑み込まれる。
 それはまるで、幸せな夢を見ているようだった。



 ……ピーンポーン、という腑抜けた電子音で私は目を覚ます。反射的にがばりと被っていた布団を退け、一時静止。日は落ち、辺りは真っ暗だった。
 再度、ピーンポーンという音が鳴る。配達ならば居留守を考えていたけれど、三度目のそれが鳴った段階でそうでないことを察した私は、無理矢理体を起こし、ドタドタとした足取りでフラフラと玄関に向かった。
 ガチャリと自然な手つきで鍵を外し、ドアノブに手を伸ばそうとしたところ、その扉は向こうの方から強引に開けられてしまった。
「やあ、元気してるかい?」
「……してるように見えますか」
 やはりお前だったか、と頭の中で呟いた。
 彼女は隣の部屋に住んでいる、最近越してきた人。名前は知らない。何をしているかも知らない。ただ、誰彼構わずすれ違った相手に声をかけるような人として、その顔はよく知られていた。彼女の綺麗な顔立ちの影響も、そこには少なからず絡んでいるに違いなかった。
「君、相変わらず死んでいるねえ」
「なんとかギリギリ生きてますよ」
「それはもう実質死んでいるようなものじゃないか。……今日は暇かい?」
「あー……いや、今は勘弁してほしいです」
 この人はなぜか、こうして度々私の部屋を訪ねてくる。これで三度目だろうか。過去ニ回は素直に暇だと答えて、彼女の晩酌やら夜歩きやらに付き合わされたが、今回ばかりは、どうしても気分が乗らない。
 今はどうしても、ひとりになりたかったから。
「ふむ」
 彼女は顎に手を当てて、じーっと私を見据えたまま、何かを考え込んでいるようだった。その頭の中がどうなっているのか、わかるようでわからなくて、わかりたくなかった。私は視線を敢えて外し、なるだけ彼女を視界に入れないように努める。
 私は決して彼女のことを嫌っているわけではないが、どうしてもその顔を見続けることができなかった。過去に彼女と会話をした際もそう。単に、人と目を合わすのが苦手という以上の何かがあるような気がしてならなかった。
 微妙な空気が流れる。
 数十秒に感じた数秒の沈黙に耐えられなくなった私は、無言で扉を閉めようとして、もちろん彼女に止められた。
 彼女の顔がぐっと私に近づいてくる。
「私ね、自分で言うのもなんだけど、人のことがわかる方だと思うんだ」
「そ、そうですか」
「……君は今、本当にひとりになりたいのかい」
 静かな衝撃が、私を襲う。
 見透かされた言葉と、酷く優しい声に、この胸を抉られる。心の奥底を覗かれていることに気づいて、私は私の全てを手放しかけてしまう。
「……私はね、君とは結構わかり合えると思うんだ」
 彼女がゆっくりと、私に言い聞かせるように、脳味噌に刷り込むかのように、そんなことを口にする。
 世界の速度が落ちてゆく。
 動けなかった。思考が止まった。
 じわ、と心の奥で何かが滲み出る。
「……ふふっ。君って心の壁が厚いように見えて、その壁は案外、触れたらすぐに壊れてしまうものなんだね」
 やけに、甘美なものとして響く言葉だった。
 彼女の指先が、そっと私の心に触れ、つーっと表面をなぞった。脆いハリボテの壁がひとつひとつ剥がれてゆき、崩れ落ちる。
 その艶かしさに、魅了される。直接、触れられている。彼女の触れた痕跡が、感覚として強く刻みつけられる。
 正直、ものすごくゾクゾクした。
 心の奥から、何かが溢れて止まらない。
「……さて、もう一度問おう。君、今は暇かい?」
 話がここに戻ってきて、やっと現実に立っていることを思い出した。
 こんなの、洗脳に近いものだ。頭の中ではわかっていても、胸の内に広がったこの甘い何かは残り続けている。
 意志は揺らぎ、どうするべきかを数秒間悩んだ。いや、悩もうとした。
 結果として、私は全てを投げ出した。
「……わかりましたよ。そこまで言うなら、今日はあなたに付き合います」
 その方が、楽だったからだ。
「ふっふっふ〜、素直でよろしい」
 彼女はそう言ってわしゃわしゃと私の頭を撫で回す。この人はやけにスキンシップが多い。
「やめてくださいよ……」
「あれ、嫌だったかい?」
「……私だって子どもじゃないんだから」
「ええ〜……まあしょうがないかあ」
 彼女は渋々といった風に手を下ろす。ほんの少し、さみしいだなんて思ってしまった自分がいたことも、否定できない。
 「ちょろいなあ」などと言う自分の声が、大きなラグの後に聞こえてきた。
「今日は君の家にあがってもいいかな?」
「……それ、私に拒否権あるんですか」
「んふふふふっ、まあ別にあってもいいけどね!」
「それなら、ないということにしておきます」
「んふふっ、君ってば素直じゃないねえ。まあ、そういうところも好きなんだけど」
 彼女と出会って長くないはずなのに、なんだか古くからの知り合いのように感じた。もしかしたら、本当に古くからの知り合いなのかもしれない。そんな錯覚を覚えるほどに、私はある程度心を開いてしまっているようだった。もうこの際、どうにでもなってしまえと思う。
 彼女の何気ない一言でドキッとしてしまったことは、見て見ぬ振りをしてあげた。
 「ちょろいなあ」と再度自嘲じみた笑いがまた一つ。でも、これでいい。どうせ長くは続かないことを私は知っていた。いつでも壊せてしまうものだと、私が一番わかっていた。
 彼女を招き入れて、私はベッドに腰掛ける。
 机の上にはペットボトルやら酒の缶が散乱しており、ベランダの前に置かれた灰皿には、沢山の吸い殻が山のように積もっている。脱ぎっぱなしの上着、雑に積み上げられた単行本たち。足の踏み場はちゃんとあるが、お世辞にも綺麗とは言えない部屋だ。
 まるで、この光景そのものが、私の心を映し出す鏡のようだった。
 彼女は興味深そうにそれらを眺め、いつの間にか私の左隣に座っていた。なんだか自分の内側を見られているようで恥ずかしかった。でも、悪い気はしない。もっと見てほしい、とさえ、思ってしまいそう。
「……君はやっぱり、私と似ている」
 彼女は一通りあたりを見渡した後、私に向き合ってそんなことを口にした。強い確信を持った言葉だった。
 どぷり、と心の奥から何かが溢れる。
 危ない、と壊れかけてた理性が小さく叫んだ。このままでは、彼女に全てを呑み込まれてしまう。甘い誘いに手を伸ばしそうになる私を咎めるように、過去の痛みが警鐘の代わりとして疼いた。何を今更、なんて言う声を跳ね除ける力は弱かった。それでも、抗わなくてはならなかった。
 私は強い理性を持ってして、彼女と接するよう限りなく努めた。そうでもしないと、私が私でなくなりそうだった。それは本当に恐ろしいことだということを、思い出しては、忘れそうになるを繰り返して、なんとか踏みとどまる。
「……いや、あなたの部屋は綺麗じゃないですか」
「綺麗に見せかけているだけだよ」
 彼女の切り返しは素早く、鋭かった。
 また一つ、自分の中で何かが崩れ落ちる。
 ほんの一瞬チラリと横目で彼女の表情を窺っては、ニコッと微笑み返されて、すぐに目を逸らした。心臓に悪い、優しい微笑みだった。
 ふと、彼女が私の左手を取って、するりと絡ませてくる。つるりとした表面を滑るような手つき。微かな摩擦に酷く熱が籠る。
 とても、健全な所作とは思えなかった。
「君の手って、すごく綺麗だね」
 彼女が私の手を鑑定するかのように手に取って、眺めている。酷く動揺してしまった私は平静を装おうとして、装えなかった。
「そっ、そうですかね……?」
「うん、すごく綺麗だよ」
 声の調子がおかしい私に目もくれず、彼女はただひたすらに私の手を鑑賞していた。
 これといって特徴のない、普通の手でしかないのに、彼女に触れられ、そんな言葉をかけられて、初めて、この手に美的価値が宿る気がした。彼女の表情はどこか恍惚とし、とても綺麗で、美しかった。そんな目で見られている自分の手にすら嫉妬してしまいそうだった。
「君は自己評価が極端に低いようだね」
 彼女はその手を握り締めたまま、私と向き合ってそんなことを口にした。その手は確かに、私のものだった。
「……そうでもしないと、やっていけなかったんですよ」
「自衛の為、か……」
 独り言のようにそんなことを呟きながら、彼女は私の指先で玩び続ける。会話への意識と、手への意識は、半々くらいだった。どちらに対しても過剰に反応しないよう、きちんと理性を保つよつにした。
「……人間は、常に期待をやめられない生き物だと、私は考えている。でも、『期待なんてする方が馬鹿だ』といった考えを有している人間の方が多いみたいだね。君みたいな人は特にその意識が強い。期待することを諦めるんじゃなくって、期待してしまうことを諦めた方が良いと私は思うわけだが……どちらにせよ、人間というのは、とても面白いね」
「……面白い、か」
「君はどう思った?」
「厄介なもの他ならないな、と」
「そこもまた愛らしいと思うわけさ、私はね」
「……そうですか」
 彼女の話を聞きながら、成る程な、と思っていたわけだけれど、どうしても最後の部分において価値観はわかり合えそうになかった。
 でも、そこにあるのは失望ではない。尊敬、とはまた違う。わかり合えないことをわかり合えてる点において、非常に居心地が良いと感じた。
「……私は、君のことを愛おしいなって思っているよ」
 愛の告白にしてはあっさりと、冗談にしてはどこか神妙さを感じさせる、そんな言い方だった。
 突然の言葉で衝撃すら感じなかった私は、冷静な頭でどちらだろうと考えて、どちらでもいいかと適当に流してしまった。彼女に対してそうすることは、きっと、無意味だろうから。
「……そうですか」
「そう。私は君のことが好きなの」
「随分とまあ……物好きな方ですね」
「んふふっ、こんな私を受け入れている君も大概だよ」
「それは確かに、そうですね」
 その言葉の後、彼女が右腕をそっと伸ばし、私の後頭部にその手が触れ、優しい力を与える。私は簡単に倒れ、ぽすん、と彼女の右肩に、この重い頭が収まった。
 違和感は何もなかった。そうすることが自然な流れだと思った。居心地があまりにも良すぎて、頭だけが勝手に不安を感じた。
 心の奥で溢れた何かは今、私の全てを満たしている。暖かいその液体の中で、ぷかぷかと漂っているようだ。
「君は私のこと……すき?」
「嫌いな人間だったら殴ってますよ」
「あははっ!そっかそっか」
 彼女に触れられているところが、やけに擽ったくて、気持ちが良い。
 この左手は、ずっと繋がれたままだ。ほんの少し力を入れてみせると、それに呼応して彼女の力も少しだけ強くなる。言葉のない会話をしているようで、楽しい。ふふっ、と思わず笑みが溢れてしまった。彼女も同じことを思っているようで、んふふふふっ、と小さく笑っていた。
「……ねえ」
 彼女が囁くようにそう聞いてきた。なんだか、消灯時間後の修学旅行みたいな感じがして、少しドキドキした。
「……なんですか」
 私も息を潜めて聞き返してみる。少しだけ、空気が張り詰めていた。程よい緊張感だった。
「……ほんの少しでも……君の心を、癒せたかな」
 それは、先程までの彼女とは打って変わって、どこか不安そうな声音だった。彼女の弱い部分に初めて触れられたような気がして、実はちょっと嬉しかったりした。
 ぎゅぅ、っと込められた力には、祈りや願いも含まれているようで、私は随分と優しい気持ちにさせられる。
 非常に穏やかな心持ちだった。
 そっと彼女の頭を、自身の右手で触れてみる。そして、撫でてみる。触れたら壊れてしまいそう、とは、多分このことをいう。私は慎重に、彼女に触れる、撫でる、を繰り返した。
 彼女は私の右肩にその顔を埋めて、静かに、涙を流し始めた。啜り泣く声が、静かな空間に響き渡る。
 彼女の右腕が、いつの間にか、私の背中に回っていた。縋るように、ぎゅぅ、っと。
「……情けないなあ」
 彼女が、蚊の鳴くようなか細い声で、そんなことを呟いた。
「……情けなくて、いいんですよ」
 私は、慣れてない優しい声を出すことを努め、ゆっくりと、そんなことを伝えてみる。こんなことを誰かにするのは初めてだった。
「そんな優しいこと、言わないでよ。壊れちゃうよ」
「……壊れてくれて、いいのに」
「よくないよ……こんなの、本来人に晒すべき姿じゃないんだって……」
「今くらい、いいじゃないですか」
 彼女の手に、痛いくらいの力が込められる。
『離さないで。何処にも行かないで』と、切に訴えているようだった。
 私は右腕だけで彼女を抱き寄せ、そっと彼女の耳元に口を寄せた。
「……ほら、情けないあなたをもっと見せてくださいよ」
 その体が、ビクッと震え、微かな悲鳴が上がった。引き攣った呼吸音が、高く鳴る。その左手は振り解かれ、両の腕で強く抱き締めた。そしてそのまま、声を上げて、子供のように、泣き出した。とてもとても、愛おしい姿だった。
 これ以上にないくらい、満たされた。
 ……随分と官能的だな、と思わず自分でも笑ってしまうくらいだった。でも、これは悪くない。最高という言葉が、文字通りのことを表しているようで、気分が良い。
「よしよーし」と、私は彼女をあやす。
 彼女は私の腕の中で泣いている。誰かを手中に収めるという感覚は、きっとこんな感じなのだろう。まるで、恋人同士での戯れ合いのようだった。
 この夢から醒めた後で、私は彼女とのやりとりを長くは記憶できないだろう。
 いつもそうだったのだから、きっと今回もそうだ。仕方がない。
 こんな妄想、消耗品にすぎないのだから。

 私はそのまま、時を止めることにした__。



 少しの、空白の時間。暗闇。微かな音。
 空っぽになってしまった、感覚だけ。

 ……話の続きが思い浮かばなくて、私はゆっくりと目を開けた。徐々に、多幸感が抜けていく感覚がした。やはり案の定、記憶はもう既に朧げだ。ただ、彼女が与えてくれた感覚が本物であったことだけを記憶している。
 別に、いつものことだった。何一つ、特別な行為ではなかった。
 いつの間にか外れていたイヤホンからは音楽が流れたままだった。手探りでそれを掴み、この辺だろうというところを何度かタップして、それを止めた。私は八つ当たりをするかのように、それを軽く投げ捨てた。
 夢から醒めた私は、ぼんやりとした頭で部屋の中を見渡す。暗くなった部屋に、街灯か、月光か、どちらかわからないけれど、薄らとした光が差し込んでいる。それに少しだけ照らされたカーテンや干してある洗濯物たちが、なんだか幽霊みたいだなと思った。耳を澄ます。ガラスを隔てても尚、車が通り過ぎる音や鈴虫の音がはっきりと聞こえる。
 ぼーっと、記憶を辿ろうとする。紛い物の記憶を、どうにか思い出そうとして、やめた。彼女に執着する理由は特になかった。ただ、刹那的に満たされればそれでいい。実在しない人間のことを考えたところで、虚しくなるだけだから。

 束の間の夢だった。
 それは確かに、幸せだったような気がする。

 多幸感がほぼ抜け切った頭で、私はぼんやり考え事をしてしまった。無意識の止め方を私は知らなかった。
 ……私は、自分で作り上げた幻想に溺れている、ただの異常者だ。それ以上でもそれ以下でもない。この世界は、ただの事象や事実が転がっているだけで、そこに意味や価値などは存在しない。それはただ後付けされたものにすぎない。私はそれを理解した上で、この世界に意味や価値を見出そうとした。
 ……でも、そろそろ限界が近いのかもしれない。どれだけその事実から、現実から、世界から、逃げ回ったところで、私は生きている以上それらから逃げようがないのだ。いや、「逃げる」という表現は正しくないのかもしれない。最初っから「逃げる」だなんて選択肢すら、存在しないのだ。私達は常に舞台の上に立たされている。手足は拘束され、どれだけ踠き足掻いたところで、この舞台から降りることができないのだ。そう、舌を噛みちぎって自死を図る以外には。
 私はもう、疲れてしまったのだと思う。
 衝動的に煙草を吸いたくなった私は立ち上がって、箱とライターを手に取りベランダに向かった。
 その一瞬、部屋の周囲を一瞥して、自嘲を大きく含んだ笑いを漏らした。ただただ汚い部屋がそこにあるだけだった。
 ガチャリと鍵を開け、ガラガラガラ、と網戸ごと開く。瞬間、冷たすぎる空気が私を包み込む。でも、頭を冷やすのには適温だった。
 金属の手摺りに両肘を置き、ぼーっと世界を見下ろした。地面からはそれなりに高さがあって、広く世界を見渡せた。比較的静かな街。どこか遠くで車が通り過ぎる音がする。
 慣れた手つきで煙草に火をつけ、大きく毒煙を吸い込む。仄かに甘い匂いが鼻をついて、もう会えない誰かさんのことを思い出した。あの子に似た、誰かさんのことを。
 私は目を瞑る。感覚を研ぎ澄ませる。
 秋風に吹かれ、私はなんだか寂しくなる。
 言語化できない感情に苛まれるこの感覚は、致死量に至らない毒を飲まされ続けるようで、なんだか苦しい。酷く苦しい。いっそのこと一思いに殺してほしいと願う、叶わない。それを私は頭で理解している。情けない、という言葉が繰り返された。
 ふと、遠い地面を眺める。きっと痛いだろうなあ、なんてことを考えては、冷たい空気に意識を向けた。無益な妄想は、あまりしたくない。
 私は思い立って、よいしょ、とベランダの手摺りに腰かけた。飛び降りる気はさらさらなかった。ただ、なんとなく、そうしたかっただけだった。微かに吹く風をより大きく感じられた。
 なんだか、物語の主人公になった気分だ。
「悪くない」と口に出す。んふふ、と笑みが溢れる。
 私は暫くの間、自分の気が済むまでそうしていた。
 私を咎める者は誰一人としていなかった。
 まるで世界の終わりみたいだ、なんてことを思った。
 早くそうなればいいのに、とも思った。
 束の間の夢に、少しだけ想いを馳せる。
 きっとあの人は、私の知らない遠いどこかで、今も生きている。そんな気がした。そう思いたかった。そう信じたかった。
 ふと、空を見上げる。
 今日の星々は、やけに輝かしい。今もこうして夜空を見上げ、同じ景色を見ている誰かがいてくれたらいいのに、なんてことを思った。星に願った。くだらないな、と笑った。でも、悪い気はしなかった。
 寂しくも、どこか暖かい夜だった。
 意味もなく、感覚を研ぎ澄ませる。

 風、手、足先、冷気、車、鈴虫、秒針、足音。
 足音、足音、足音、足音、静止。
 ……静止?

「えっ?」


 ピーンポーン、という腑抜けた電子音で、私は目を覚ました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?