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【小説】『レッツエンジョイ人生イェア』

「言い訳をさせてくれないか」
 胃酸で焼けた喉だからか、先程大きく叫んでしまったからか、私の声は酷く霞んでいた。
 君は頭を壁に預けて、目線だけを私に向けている。どこか虚空を見つめるかのような目で。
 お互いこんな状態の中で何を話しても意味はないような気がしてきたけれど、話さなければ何も始まらない。いや、話したところで何も始まらないかもしれないけれど、それでも、この人はちゃんと私の話を聞いてくれるだろうという淡い期待が捨てきれなかった。
「……生まれた時から不幸な人間は、幸福なものによって手を加えない限り、一生不幸なままだと私は考えている」
「本当に言い訳だね」
「と、とにかく最後まで聞いてほしい」
「もちろんそのつもりだよ。ほら続けて」
「え、えっとね……人間の主観って最初っからあるわけじゃないから、周囲から受けてきた評価とかによって自分の認識とかそういうのが形成されると思うの」
「うん」
「同じ人間と関わり続けたらさ、その人の影響って凄く出てくるじゃん。それって良い意味でも悪い意味でもそうだと思ってて」
「そうだね。悪い人間と関わり続けたら自分までもが悪くなってきそうだ」
「……ごめんなさい」
「別に君のこととは言ってないだろ」
「ごめんなさい、本当にすみません」
「謝り癖でてるよ」
「なんか、なんか、本当、すみません」
 意味のない謝罪を繰り返される側は嘸かし面倒で嫌気が差すだろうな、と冷えた頭の奥でそんなことを思いつつも、壊れた機械と化したこの体は勝手にあやまり続けている。罪悪感にまみれた心は苦しがるばかりで、きっとそれを取り除こうと必死なんだろうけど、何一つ良い方向にはいかない。こんな私を傍観しているだけの私は一体どこにいるんだろうか。
「もう、しょうがないな」
 その声はやけに優しかった。
 私は自分でさえよく分からない涙が流れ続けている。ぼやけた視界では何も捉えられなかった。
 すると、ぽすん、と力をなくしたこの体は彼の腕の中に収まる。暖かい、と感じた時には自然と言葉も止んでいた。ただ整わない呼吸だけが残っていた。
「ほら、好きなだけ泣けばいい。落ち着いたらまた話そう」
「も、もうやだ、話したくない、疲れた、もうやだあ」
「ふふ、そっか」
「わらってんじゃねえよくそが!」
「だって、急に子供みたいになるから」
「わたしはずっとこどもです」
「うん、そうだね〜よちよち」
「うるさいだまれうざい」
「あはは、ごめんって」
 私はこいつのこういうところが割と本気で嫌いだ。でも、そういう部分があるお陰で今の関係が保てているような気もする。
「結構すぐ落ち着くじゃん」
「うるさい、はなれるな」
「離れないよ」
 頭を優しく撫でられる。優しく、優しく撫でられるから、頭がぼーっとしてくる。人の温もりひとつで生まれる安心感に全てを溶かされて、ずっとこのままでいたいなんてことを思う。ぼんやりして、きっとこれが幸せなんだろうなあと多幸感にまみれた心がそう感じてる。
「……結局、こういうことがされたかっただけなんだよなあ」
「もっと素直になればいいのに」
「素直になるって、怖いよ。その素直になった私を相手が受け止めてくれる保証なんてないんだから」
「俺もまだまだ信用されてないなあ」
「他の人よりかはしてるよ」
「……そっか」
「うん」
「……俺は割と、頼られて嬉しいと思ってるよ」
「そうか」
「うん、そう」
「でも私お前のことそこまで好きじゃない」
「あはは。まあ、知ってるよ」
「お前以外に頼れる相手がいないだけ」
「可哀想だね」
「本当にね」
「まあでも、それならそれで、俺がいてよかったんじゃない」
「誰もいないよりかは幾分かマシなのはそう」
「良かったじゃん」
「うん」
「……それで、なんだっけ。不幸な人間は幸せな人間と一緒にいないと幸せになれない話だっけ」
「もういいよその話……ただの言い訳だし」
「君は頭が良いんだから、自分ひとりでなんとかしようと思えばできるはずだよ」
「それでも甘やかされたいもんは甘やかされたいし、苦しいもんは苦しいよ。誰にも知られない受け止めてくれないって、凄くつらいから」
「この拗らせかまってちゃんめ」
「うるさい! 苦しいって心がそう思ってるんだから、苦しいって言わせて欲しいし誰かに知ってもらいたいんだよ。同情でもなんでもいいから、誰かから『大丈夫?』って心配されたいんだよ。それの何がいけないの!?」
「それはきっと悪いことじゃあないよ」
「じゃあどうしてこんなにもつらいのさ」
「君が辛いと思っているからだろうね」
「自分に嘘をつけってか!? 自分の感情を抑えつけることが一番って話なの!?」
「そうじゃないよ、落ち着いて」
「もう何もわかんないよ! 辛いもんは辛いし誰かに構ってもらいたいし受け止めてもらいたいし甘やかされたいし、誰も私のことなんか見てくれないんだって思えば思うだけもっともっと辛くなるしもうどうしたらいいかわかんないよ……!」
 勝手に感情が加速して、勝手に涙が溢れてくる。抑えていた本心を吐き出すというのは、どうも、うまくいかない。難しい。
 ごめんね、と頭の中だけで呟いた。
「君って本当、生きづらそうだね」
「望んでこうなったわけじゃない! それは本当だよ……」
「わかってるよ」
「どうすればいいかわからない」
「……そうだね」
「わかんないよもう……!」
 声を上げて泣く私を抱き寄せるだけの君。きっともう、言葉ではどうにもならないことなんだろう。わからないのはきっと、君も同じだ。
 こんなことを喚き散らしたところでどうにもならないのは知っている。吐き出して、涙が枯れるくらい泣いて、落ち着いたらまた明日。それを繰り返すだけの毎日で、いつかは寿命が来る。日を重ねる度に変化していく自分を受け入れられない私ですら、いつかは変わっていくんだろう。それを悲しいとか寂しいとか思うこの感情は本物で、あっていいものだと君は言うだろうけど、きっと否定したところで何にもならないから、そう言ってるだけかもしれない。
「……君が一番可哀想だ」
「そんなことないよ」
「本当にごめん」
「別にいいよ。気にしてるのは君の方だ」
「それは……そうかもしれない」
「君は一番自分自身のことを気にかけるべきなのに、君はやたら自分以外を気にしてるよね」
「他者があって自己が形成されるものだと考えてるから。なんか、他者評価をそのまま自己評価に置き換えてるんだよな」
「苦しいでしょ、それ」
「そうだね。だから、私に優しくしてくれたり私を褒めてくれたりしてくれる誰かを、ずっと探し求めている」
「解決策を変えたら?」
「認識を変えるって難しいし、私は不可能だと思ってる。あれは頭でどうこうできる話じゃない。頭を変えられたところで、心とか生まれてくる感情はそう簡単には変わらないよ」
「不可能だと割り切ってるからじゃないか。長い年月を同じくらいかければワンチャンあるっしょ。人生は長いんだし」
「近々死ぬ予定の人間になんてことを言うんだ!」
「なんてことを言っているのは君の方だろ……人生百年と考えた時、まだ五分の一しか進んでないんだぜ」
「先が長すぎる……今でさえ疲れてるのにこれからもっと疲れなきゃならないのか」
「人生案外楽しいことあるけどなあ」
「収支が釣り合ってないんだよ……」
「じゃあこれからもっと沢山楽しいことをしていこう」
 ふと、彼の顔を見上げた。ニヤッと浮かべた表情はなんとなくダークヒーローを連想させた。その格好だけは様になっているように思えた。
「俺が人生の楽しみ方とやらを教えてやるよ」
 その目はやけに澄んでいた。私は目を逸らした。
 思考の波が押し寄せてきて、呑み込まれてしまいそうになることを、寸前で理解する。それ以上、深く考えてはいけない。だから私は、考えることをやめた。浜辺から遠ざかり、向こう側にいる君を見据えた。
「……それなら、付き合ってやらんこともない」
 君は満足したように笑った。
「よし、じゃあ決まりな」
 私はこの瞬間、彼の車に乗り込んだのだろう。暖房の効いた安全地帯に。恐ろしい何かから、逃れるようにして。
「取り敢えずの延命、か……」
 私はほっと息をついた。彼が終始、隣で微笑んでいた。
「今日も生きててえらい」
「ははは、どうだろうね」
「まあ、また今度どっか出かけよう」
「予定ならそっちが勝手に決めて。私はついて行くだけだから」
「おう、全国全世界回り切るまで死ぬんじゃねえぞ」
「はははっ。人間いつかは死ぬけどね、君も私も」
「まあまあ、それはそれで。その時が来たら、その時考えればいいっしょ」
「随分と適当だな」
「おうおう。人生もっと適当に生きてこうぜ。君はあまりにも真面目すぎる」
「真面目、ねえ」
「もっと肩の力を抜いてこうや。人生楽しんでこうぜ」
「はあ」
「ほらほら君も、レッツエンジョイ人生イェア」
「……レッツエンジョイ人生イェア?」
「そう。ワンモアタイム」
「……レッツエンジョイ人生イェア」
「イェア」
「なにそれ」
 あまりにもくだらなくて笑った。私はため息を一つ吐いて、また笑った。それは苦笑にしてはどこか、あたたかい笑いだった。

 どうやら私は、明日以降も生きるらしい。それをはっきりと理解したからだろう。不思議とそこまで悪い気もしなかった。
 ……少なくとも、今は。今だけは——。

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