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【小説】『絶望するな、世界を愛せ』

「私はね、君に絶望してほしくないんだよ」
 お姉さんはそう言った。彼女とは見ず知らずの赤の他人、というわけでもない。私が学校をサボって公園にいると、いつもブランコに座って電子タバコを吸っている人。言わば顔見知りの関係で、偶にこうして話をする。
「学校なんて行かなくてもいいさ」
「……それでも、学校に行けないのって、学校に行ける人と比べては劣るし、損してるじゃないですか」
「そんなの大した損じゃない。社会に出てみればわかるけど、不登校児でも立派に働けてる人はいる。ここで一番重要なのは、君が苦しんでいることだ。苦しみながら生きるのはよくない。それは絶望に繋がってしまうからね」
「……学校に行けないことに苦しんでますよ私は」
「じゃあその苦しみは、学校に行くことによって解消されるのかい?」
「さあ……どうなんでしょう」
「もっと別の苦しみに襲われかねないならば、行かなくていいよ」
「どっちも苦しいなら、行った方がよくないですか?」
「まあ、私が何を言おうと決めるのは君だ。君がそうするべきだと思うなら、そうした方がいい」
「そうですか……」
 彼女はよく、私にアドバイスをくれるが、結局はいつもこうだ。「最終的に決めるのは自分自身だ」と。
「そもそも、私は何故君が学校に行きたくないのかを知らない。話したくなければ結構だけど」
「それは……」
 私は息を吸った。お姉さんの吐いた煙が、空を舞って溶けて消えた。私は何となく、ブランコの鎖を両手で握る。
「……何となく、気味が悪いんですよ。集団の中で息が詰まるっていうか……こんなことを続けて一体何になるんだろう、っていうか、何のためにこんなことしてるんだろうって思うと、今の全てが無価値に思えるっていうか……」
「なるほどね」
「今の全てが無価値なら、何で皆、生きられてるんだろう、って……」
 お姉さんは長く、ふぅーっと息を吐いた。
「今の君は限りなく絶望に近いところにいるね」
 彼女がよく使う「絶望」の意味を、私は知らない。
「……考えるな、って話ですか?」
「いいや、そういう思考をする人は滅多にいない。そう言った思考は人に厚みを持たせるからね、魅力的だと思う。私は君みたいな人が好きだよ」
「でも、苦しいです」
「苦しいのはよくないね」
「じゃあ、やめろって話じゃないですか」
「君がやめた方がいいと思うのならば、そうかもしれない。でも、そうした思考の果てにある人生って、他の人とは違った景色があると思うよ」
「具体的にはどういう景色ですか、それ」
「豊かな景色だよ」
「全然具体的じゃない……」
 お姉さんは笑った。笑って、吸い殻をケースにしまった。そして、ブランコを突然漕ぎ出した。
 私も、何となく彼女に合わせて漕いでみる。
「思考が深い人はそれだけで他の人より得をしている。そういう人はね、絶望に直面した時、自ら抜け出す手段を編み出せるんだよ」
「私はあなたの言う絶望を知らない」
 私はその時、初めてそのことを伝えた。
 彼女は言った。
「今はまだ知らないかもしれない。でも、いつか君がそれに直面した時、きっとその意味がわかるはずだよ」
「そうだといいですね」
 その日の会話はそれで終わった。
 平日の夕暮れ時、小学生の下校時刻になって、私はお姉さんと別れた。
「それじゃあ、君の人生が少しでもより良いものになることを祈ってるよ」
 それは、いつもの別れの言葉だった。
 私はひとり帰路を辿りながら考える。
 あの人は私が「限りなく絶望に近いところにいる」と指摘した。絶望ってなんだろう、と思う。私はまだその意味を知らない。知っているようで、全く知らない。
 お姉さんは絶望を知っているのだろうか。知っているとしたら、それは、具体的にどういうものだったのだろうか。
 私は一晩ずっと、そのことを考えていた。

「やあ」
「こんにちは」
「こんにちは」
 私が今日も学校を休んだことをお姉さんは気にもしなかった。いつも通り、ブランコに座って電子タバコをふかしていた。
「今日はあなたに訊きたいことがあったんです」
「はいはい、何でしょう」
「あなたの知る絶望って、どういうものだったんですか」
 お姉さんは「んー」と言って、煙草を長く吸って、長く吐いた。軽く地面を蹴って、「んー」と言いながら、鎖を両手で握り、快晴の空を仰いだ。
「私が学生の頃ね、学校に行けなくてひとりで絶望してたんだ」
「そうだったんですね」
「だから、君にはそうなってほしくないなと思う。行ったら行ったで、確かに社会が敷いたレールに進むからさ、それは楽なんだよ。多数派の道に進むことは楽だ。そこで苦しむということは、そのレールの通りに進みたくないと心が叫んでいるから。要は、納得してないからなんだよね。でも、自分で思考して、別の道を開拓するのは楽なことじゃない、難しいことだ。それは少数派が選ぶ道というわけだけれど、少数派だからと言って、その程度で絶望するのは違う。そういう人生だって当然のようにあるんだから」
「なるほど……」
 私は別に、驚きはしなかった。そうなんだろうな、という気はしていた。でも、その立場が故に私にそう思ってくれているのは意外で、少しだけ嬉しかった。
「君に、友達はいるかい」
「あまりいませんね」
「そう。まあ、私もなんだけどね」
 彼女は笑って、こちらに向けてピースをした。私も何となく、ピースを返した。
「でもね、孤独であることは限りなく絶望に近いよ。友達は多くいた方がいい」
「それはわかってるんですけどね」
 思わず自虐的な笑みをこぼした。「はははっ」と相槌を打つようにお姉さんも笑った。きっと、同じことを思っているのだろう。
「ねえ、君は私のことを友達だと思えてるかい。まあ、思えなくても構わないんだけれど」
 私は少し立ち止まって、考えた。ともだち、という言葉を頭の中で口にしてみる。いいや、違う。もっと別に適した言葉がある、と思った。
「友達、じゃなくて、仲間とは思ってますかね」
「そうか……そっか。そうだね。仲間という言葉の方が正しいかもしれない。友達じゃなくて、仲間は多くいた方がいい」
 私は思わず、彼女にピースを向けた。ピース、と彼女を笑ってピースを返した。
「ねえ。もっと、絶望のことを教えてくださいよ」
「絶望のこと、ねえ……」
 お姉さんはまた、空を見上げて思考を巡らしているようだった。その間は少し、長かった。
「私の人生最大の絶望は、愛して欲しい人に愛されなかったことかな」
 その言葉は、遠くまで飛んでいくようだった。その、愛して欲しかった人まで飛んでいくような。この空のどこか遠くまで、届くようだった。
 これは少し、意外だった。
「その人のどこが好きだったんですか」
「私の全てを理解してくれてる、って、少なくとも私は思っててさ。数少ない私の仲間だったんだ」
「振られちゃったんですか」
「見事にね。十年近く歳が離れてることもあって、全然そういう目で見られなかったみたい」
 ははは、とお姉さんは乾いた笑いを漏らす。彼女は少し悲しそうな顔をしていた。
「凄く大きな絶望だったな。でも、その絶望だって、いつかは軽くなる。当時の私はそんなの、思いもしなかったけどね」
「どうやってそこから抜け出したんですか」
「ありきたりなことばかりだよ。新しい趣味を探して熱中するとか、数少ない知り合いと仲良くするとか、頑張って恋人を作ってみようとしたり……そうして上手くやり過ごして、鮮明な絶望から距離を置いて、絶望の濃度を薄くして……時が解決してくれるのをひたすら待ったね。耐え凌ぐ日々は本当にしんどかったよ」
「でも、こうして今のあなたがいるんですね」
「そうだね。今はなんとか普通に生きてるよ。無職ではあるけど」
「無職だったんですね」
 はっはっは! とお姉さんは笑った。何を今更、といった風に。まあ、想像できなくはなかったけれど。
「まあでもね、かつての私だったら働ける状態でなくなった時点で絶望してたと思うよ。でも、一回大きな絶望から脱してみるとね、何とかなる気がするんだ」
「楽観的になれた、ってことですかね」
「認識を大きく変えたんだ。そしたら世界は変わった。この思考も、実は好きな人の受け売りなんだけどね」
「そうだったんですね」
「完全オリジナルの思考なんてないよ。少しずつ他者から学んで、自分というものを構築していくんだ」
 私は思った。それじゃあ私の思考も、少しずつこの人からの影響を受けて構築されているんだろうな、と。
「君はこの世界が嫌いかい」
「まあ……好きではないかもしれないですね」
「世界を愛したら世界は答えてくれるよ。結局は見ている世界とその認識次第だからね」
「認識、ですか」
「認識を変えたら世界も変わる。変えるのは凄く難しいことだけどね」
 それはそうだ、と頭の中で相槌を打った。
「そもそも、それを変えるきっかけを与えられるか否かは運でしかないし、与えたところで本人にその気がなきゃあ変わらないまんまだし、だから結局は自分次第なんだけど、変えられない自分を責めるばっかりで何もいいことがないケースもあるし……人間は難しいね」
 これは一体、誰の話をしているんだろう、と思った。
「私は少なくとも、変えてみようかな、とは思ってますよ」
「そうなのか」
 お姉さんは少し、驚いた顔をした。
「こんなの、私のただの独り言のようなものだけどね」
「でもちゃんと、私に向けて言葉を紡いでくれていますよね?」
「正直、届くことを期待してなかったんだ。自分が無力なことを突きつけられるのは悲しいから」
 きっとこの人は、この人の中で予防線を張った上でこれまでの言葉を紡いできたのだろう、と推測した。この人は、きっと見かけによらず臆病なのだろう、と。
「……絶望するな、世界を愛せ」
 それは、独り言のような呟きだった。
「絶望するな、世界を愛せ」
 私はそれを復唱した。意味もわからないまま、空っぽの言葉だけを吐き出した。
「外的要因の排除と、認知の矯正。ストレスを限りなくなくし、心に余裕を持たせた上で世界を愛そう。そしたらきっと幸せになれる」
 それもまた、独り言のような言葉だった。
「私がかつて愛した人がね、そう言ってたんだ」
 なるほど、と思った。
「絶望するな、世界を愛せ」
 もう一度、私は呟く。
「世界を愛せ、ってどういうことですかね」
「世界のことを好きになることだと、私は思ってる」
「世界を好きになったら、どうなるんですかね」
「幸せになれる、って私は思ってる」
「絶望に沈む暇があるなら、認識を変えて、世界を愛して、幸せになろう、って話なんですかね」
「きっと、そうなんだろうね」
 彼女は目を瞑って俯き、少し微笑みながらそういった。それは、優しく、幸せそうな表情だった。
「君は幸せになりたい?」
「なれるなら、なってみたいですね」
「私も同じ」
「お姉さんは、好きな人に幸せになることを望まれたんですね」
「そうなのかな」
「そうですよ、きっと」
「そうだといいな」
「幸せになってください」
 その言葉は、思わず口から出ていた。
「私も、幸せを目指して生きてこうと思います」
「そう」
 お姉さんは、優しく、幸せそうに、微笑んだ。
「君も幸せになれるといいね」
「そうですね」
 その日の会話はそれで終わった。
 平日の夕暮れ時、小学生の下校時刻になって、私はお姉さんと別れた。
「それじゃあ、君が幸せになれることを祈ってるよ」
「私も、お姉さんが幸せになれることを祈ってます」
 私は、私の仲間に向けてそう言った。

 私は次の日、学校に行った。あの人は今頃どうしているのだろう、と思いながら時を過ごした。
 下校する際、いつもの公園に立ち寄った。
 ブランコに駆け寄ると、一つの紙切れが落ちていた。
 それを拾うと、こんな言葉が書かれていた。

「君の人生はまだまだこれからだ。
 こんなところで絶望しちゃあいけない。
 絶望するな、世界を愛せ。
 君は幸せになるために、生まれてきたんだから。」

 名前も知らないあの人と会うことは、もうなかった。

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