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調和について。

僕の周囲で起きている不和は全て僕の所為だと思う。

人間関係を形成し始めた幼少期から学生時代、そして現在に至るまで僕はずっとそう思っている。

家庭だったり、友人関係だったり、学校だったり職場だったり。

その全てで僕は不和の災禍になってきた。

最初は僕も被害者面をしてそれが排他された側の免罪符だと言わんばかりに喚いていたが

どうやら本当の被害者は僕ではなくあの人らだったらしい。

排他には必ず理由がある。

そしてその理由は排他される側が自ら生み出すものだろう。

あの人らからすると僕が不出来な人間だから不和の原因そのものと不安要素を排除したかったのだろう。

なにかしらの能力の欠如、その尻拭い。

それによる不快感。

糞を漏らした人間の後片付けを、誰かが強要させられる。

集団を作って生きていく人間の特性として、少しでも理由のある個体を差別して排他して安心するのだろう。

今流行りの「多様性」という言葉。

それ自体が自分とは違うものを認識するために作られた言葉だろう。

そしてそんなもの、当然受け入れられるはずがないからマイノリティが大きな声で「差別反対!我々を受け入れなさい!」と喚くのだ。

はっきり言って馬鹿の所業だろう。

愚かの一言に尽きる。

寛容と押し付けを履き違えている。

それは「差別反対!」と叫び散らしながら大義名分と下品な蛍光色で書かれた大きな白旗を掲げ、通りを歩く人々を殴り倒しながら大勢で行進するという形のマジョリティへの弾圧に他ならない。

それは我々が誤解した何よりも大きな"権利"だろ。

"多様性を認めないという多様性"には目もくれないのだ。

我々のような欠けた側の人間が何故健常者達に"受け入れてもらえる"と誤解しているのだろう?

健常者達も日々を生きるのに必死なのに。

欠損している側の我々は1人で死ぬ決まりを受け入れなくては。

僕も含めて"人と違う人間"は淘汰されるべきだ。

よく考えてもみてくれ、仕事もしない、頭も悪い、精神も稚拙、容姿も醜く、身体は思うように動かずに日々陽の当たるところを歩いている人間に対して呪詛を吐き散らかすような汚い中年に誰が手を差し伸べるだろうか?

今の社会は暇な人間が多いからマイノリティへの"配慮"という余暇に浸れる。

だが本当に救うべき弱者は救いたいと思うような姿をしていないのだ。

そう、「本当の悪」とは「個人が抱えられるなんらかの欠損」だ。

僕は自らの欠損で他者に迷惑をかけ過ぎた。

それではみなさん!

お手を拝借!!

全ての調和の為に、全ての不和の排除をしよう!

そしてその永劫の調和が訪れる時!

僕も排除されているだろう!

地獄で会った時は、その時はどうかよろしくな。兄弟。

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