風立ちぬ。

至近距離で小野二郎の所作を見た。

いわゆる流麗なタイプでも、無骨なタイプでもない。

とりわけ序盤に顕著だったが、米粒が手のいたるところにくっついていたりしたし、作業そのものがことさら美しいわけでもない。

念をこめるようなパフォーマンス性は皆無。

また、言うまでもないが、よくいるスピリチュアル系の握り手ではないから、自身の精神をことさら際立たせるーーこれみよがしなーー態度とも無縁である。

ただ、手早さよりは、やや慎重と言ってもよい動きが印象に残る。

重いわけではないが、まったく軽快ではない。

整形に時間をかけているのではなく、最終的にネタとすめしに一体化をはかっているように見えた。

もうすぐ88歳だという。

年齢がどの程度影響しているのかはわからないが、手数を意識的にひとつふたつ増やしているのではないかと思った。

前述した通り、それは「見せるための」ポーズではなく、そうしたほうが仕上がりがよくなるという、鈍い確信がベースにあるのだと想像できる。

思い返して、気づくのは、ひょっとすると、ここが最も非凡な点かもしれないが、彼の振る舞いからは一切「美学」らしきものが漂わなかったということである。

つまり、仕上げのために、一手間、二手間かけるということが、最新のトライに映る。

「見え方」などは、ある意味どうでもいいと考えているのではないか。自身が立つための拠りどころにすがっている様子が皆無だ。

「素手」の握り手。

驚くべきは、威嚇がなかったことである。

腕に自信のある握り手の多くは、客を威嚇する。流儀や沈黙や空気によって、威嚇する。

語弊があるかもしれないが、小野二郎は輝かない。遠くから見つめればまた違うのかもしれないが、すぐそばでの観察をつづけた結果思うのは、彼は「光」ではなく、「風」だということ。しかも、小さな「風」。意識的に、あるいは無意識的に(彼にとって、もはやそれはどちらも同じ領域にあることなのではないだろうか)、心のなかに「風」を吹かせつづけること。

意外なほどに匿名性が高い。わたしはむしろ、そのありように感動した。

わたしは、小野二郎が直接黒板(くろいた)の上に握りを置く席で食べることができた。

前半、彼は、置く直前、つまり握っている最中、何度も何度も、こちらを見る。

自分がこれから置く場所を確かめるように、視線を投げかけてくる。

わたしは、彼が黒板を見ていることを知りながら、何度も何度も、どきどきした。

わたしのまなざしは、常に彼の手に注視していた。

その手が近づくとき、ようやく顔をあげて、目があう。

置かれた握りを、1、2秒見つめたのち、すぐ口に放り込む。

この一連の流れ。

断続的に送り込まれてくる視線の積み重ねは、単なるイントロダクションを突き破り、不断の呪文のような効果を果たしていた。

少なくとも、わたしにとって。

もし、あれが、一種の催眠だったとしたら、脱帽するしかない。

酢のきいたすめしは好きだ。

だが、ここまで酢が残るすめしは初めてだ。

「水谷」や「青空」のすめしとも、全然違う。

みかんの搾り汁を紙に垂らして字を書く。

染み込んだそれは、そのときは見えなくなる。

紙の質感と紙の色に消えゆくみかんの文字。

しかし、その文字は紙をあぶることで浮かび上がる。

「次郎」のすめしは、そのような変幻を遂げる。

最終的には、酢が、心象に筆をひくのだが、握りそのものは、すめしが突出しているわけではない。

これも特徴的だと思うが、小野二郎は、すめしとネタを対峙させない。

融け合わせる。

いや、夫婦(めおと)にする。一緒に棲まわせる。

愛し合うのではない。彼の鮨は、決して官能的ではない。

ただ、同じ部屋で「生活」するのである。

「生活」、すなわち、生きる活動。

つまり、現在進行形として、いま、そこに在る鮨を、小野二郎はかたちづくる。

恋愛や性愛を通過した先にある、「生活」。

家庭ではない、もっともっと、日常の粒子だけを結晶化したような「生活」としての、テクスチュア。

ハレにもケにも属さない、みなしごのような「生活」。

ゴージャスなもの、グラマラスなもの、

肥大化した欲望の受け皿としての鮨ではない。

かといって、職人の自己顕示欲に無理矢理つきあわせられるような徒労もそこにはない。

すめしとネタは、五分と五分。

夫婦(めおと)の覚悟が、ただ雑然と転がっている。

「風」が立つような、風情のまま。

ネタのためにすめしがあるのではない。

すめしのためにネタがあるのではない。

そんな当たり前を実現=体感させるために、飽くなき追求がおこなわれている。

技術として感嘆させられたのは、ネタによって、すめしの空気の含有率やわさびの量の加減を感知させずに、

「車高」だけをスライドさせていくことである。

正確に言えば、空気含有率も、わさびの量も、変わっている。

しかし、そこに意識を向かわせない。それは「方法」であって「目的」ではないからだ。

意味ありげな「方法」が、物事の「本質」を覆い隠してしまう不幸は、世の中のいたるところで派生しているが、

小野二郎はそんなことは知ったこっちゃないと言わんばかりに、「目的」だけに邁進する。

その、驚くべき合理性。

小野二郎の鮨を喰らって、もららされる途方もない感慨は、

「目的」に向かう、合理的なベクトルが、握り手の自意識ーー美学やこだわりーーを超越していくパースペクティヴだ。

鮨には、そのネタにふさわしい、すめしの「高さ」がある。

この、当たり前の、あまりに当たり前の真実に直面し、その都度、慄然とする体験が、「次郎」の鮨を喰らうこと他ならない。

すめしの「高さ」が、ネタと「添い遂げる」ことによって、味わいも、温度も、印象も、心象も、変えていくこと。

ひとつのネタに、決められたすめしの「高さ」があるのではなく、すべては一期一会であり、たとえ同じネタであっても、その都度、「高さ」は修正されつづけなければいけない。

ネタの表面積が、「床」だとすれば、すめしの「高さ」は、「柱」に相当する。

横軸と縦軸の交差によって出現する「家」。

そこで描き出されているのは、建物ではなく、夫婦(めおと)である。

男鮨、女鮨という形象があるが、小野二郎の鮨は「夫婦鮨」である。

2013年6月29日 昼

かれい

すみいか

しまあじ

あかみ

ちゅうとろ

おおとろ

こはだ

むしあわび

あじ

くるまえび

とりがい

かつお

しゃこ

いわし

うに

こばしら

いくら

あなご

かんぴょう

おぼろ

たまご

#鮨
#寿司
#すきやばし次郎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?