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おかえりと言わせて

  今年に入った頃からだろうか、私が母に「ただいま」と声を掛けても、あまり返事をしなくなった。夕飯の準備に集中して聞こえていないのかと思って再度「ただいまっ!」と言ってみる。わかってるがな、というように「おかえり」と言う時もあれば、返事しているのか無視しているのかわからないあやふやな時もあった。思えばこの頃から母は体調を崩し始めていたのかもしれない。
 
 春も終わりの頃、主治医より母の様子がおかしいと連絡が入り、急遽検査を受けることとなった。私も仕事を休んで付き添った。血液検査、CT、エコー、それだけでははっきりしなかったので、追加でMRIによる画像診断も受けた。
 母は検査着への着替えもままならないほどぐったりとしていた。着替えの際、母から尿臭がして、ズボンが濡れているのがわかった。母はそのことにさえ気づいておらず、私だけが気をもんでいた。もたもたと要領を得ない様子で着替えさせる私を見かねて、介護士をされているという患者さんご家族に助けてもらいながら、何とか検査を終えた。長い待ち時間と再三の診察の結果、特段の異常所見は見られないとのことで、一日がかりの検査もむなしく、相当の徒労感と身体の疲れを土産に帰宅の途に就いた。
 
 帰宅してから部屋に戻るまでもさらに大変だった。西日が強く照らす中、母は右手を手すりに、左手は私の手を頼りに一、二歩進み、そのたびに座って小休止を取る。私はセコンドのように母の尻に丸椅子を差し出す。延々その繰り返し。家の前のガレージから五メートル程度のアプローチを通って部屋に辿り着くまで、半時間近くを要している。これまでも母と外出した時、急に歩けなくなるなど立ち行かなくなることがあり、誰かの助けを乞うことがあった。でもここは家の敷地内、部屋まであともう少しの所。自分たちで何とかするしかない。母が今歩けないのは、誰のせいでもないことはわかっている。それでも溢れ出る憤りのようなやるせない感情をどこにもぶつけることができず、ただ我慢するだけの気の遠くなるような時間が過ぎていった。
 玄関を上がった廊下にも手すりがあるので、同じように何とか進んでいく。この時点ですでに、私の緊張の糸が切れてしまっていた。「もう本当に疲れた。早く終わってほしい。もうどうにでもなれ。」というような気分。母はシルバーカーを使って自室に後ろ向きに入っていく。両手でシルバーカーのハンドルを握ってバックする母親を支える。その瞬間急に「押して、押して」と母が小さく叫んだ。「え、押すの?」正面にいた私は、わけもわからず、少しイライラしながら言われるがままシルバーカーをちょいと押した。冷静に考えれば当然どうなるかわかるはずなのだが、そのとき私は本当に何も考えていなかった。母は部屋のカーペットに尻もちをついて倒れた。
 この時点ではまだ、私は事の重大性を理解していなかった。「しまった。あーあ、僕一人では起こせないな。」仰向きに倒れた母は自力どころか私のアシストがあっても立つことはできない。私は残酷にも、ひっくり返って起き上がれない昆虫を連想していた。私一人ではなす術がないので、すぐに担当のケアマネさんに電話する。ケアマネさんは公休日だったが、すぐに数名の同僚が駆けつけてくださり、手際よく下にシーツを敷いて、シーツごとベッドまで運んでくださった。その時も、さすがプロの方は違うなあ、ありがたいことだ。水族館のイルカの移動もこんな感じだった気がする、などとのんきに構えていた。
 
 翌日、母は人工透析を受ける日なので、朝母の様子を見に行くと、苦しそうにしており、立ち上がることができない様子だった。救急搬送にて精査の結果、仙骨と胸骨の骨折が見つかり入院となった。
 さらに入院数日後、重度の胆嚢炎の合併が見つかり、直ちに切除となった。医師いわく胆嚢が腐っていたとのこと。ここ数週間の体調不良はこのためだったようだ。入院中は感染対策のため家族とは一切の面会謝絶で、もうどうでもいいと思ったのかはわからないが、病院食もまずいまずいと言ってほとんど手をつけず、リハビリに対しても消極的だった。
 
 ところが手術を受けた急性期病院から透析専門病院に転院してからは、リハビリにも意欲的に取り組むようになった。比較的新しくきれいな病院で、食事もおいしく入浴も丁寧に介助してもらえる環境の中、もう一度頑張ろうと思えるようになったのかもしれない。「お盆には家に帰れるかなあ?」と母は問うが、まだもうしばらくかかると思うよ、という曖昧なしか返事ができない。
 
 実は急性期の病院で、病棟の主治医からも、透析科の担当医からも、帰宅は難しいというかまあ無理だろうというニュアンスの話を受けていた。インフォームドコンセントの場の医師は手練れで、「帰宅はまず無理です。違う道を探しましょう。」とは言わず、現状の厳しさを淡々と説明して、「(だからわかりますよね?)」と私をひとつの選択肢へと誘導していく。医師、看護師、理学療法士、医療相談員、その場いる皆が、母や私が望むような回復は困難であること、奇跡的に回復したとしても入院前のように自宅に戻ることは期待できないこと、帰宅を強行した場合、常に見守りが必要となり、私が仕事を辞めないのであれば、ヘルパーの雇用によって膨大なお金がかかること、そこまでやったとしても十分な安全を担保するのは難しいことなどを説明された。
 
 私は何かにつけすぐに「あの日に戻れればこうするのに」などと無意味な空想をしてしまう癖がある。母が入院してからは、毎日のように「母を転倒させてしまったあの日に戻れたら、絶対に部屋のベッドに寝かせるまで、こけさせないように気を張っているのに」と自責の念に囚われている。母にも目の前に居ながら転倒させてしまったことを謝ったが、あの時「押して」と言ったこと自体、本人は覚えていなかったし、あんたのせいじゃない、気にするなと言われた。
 医師いわく入院するまでの母の自宅生活はすでにギリギリのところで成り立っていたもので、転倒はきっかけに過ぎないという話だった。「もしあの日転倒していなかったとしても、数日後には胆嚢炎で結局は入院していただろうし、むしろ転倒をきっかけに入院したおかげで早くに胆嚢炎がわかったのだから、結果的に胆嚢炎の増悪を放置して重症化することを防げたのかもしれない」、と自分を慰めるために考えてみたりもした。
 でも結局、母は入院から3カ月以上経った今でも、臥位から座位への体位変換もままならないでいる。こんな状態にしたトリガーを引いたのは私なのだ、と思うと罪悪感で一杯になる。家には母が転倒した日、検査の合間に買ったペットボトルがまだ残っている。見る度にこれを買ったときまで時間が戻ればいいのに、とまた無意味な空想をしてしまう。
 
 現在私は母のいない実家に独りで暮らしている。たいして大きな家でもないが、昔は五人家族で住んでいた家。独りで居るには広すぎる。仕事で遅くに帰っても、ただいまを言う相手もいない。
 もはや「おかえり」どころか「ただいま」もなくなったこの家に、それでも何とかいつかは母に「おかえり」と言える日が来るかもしれない。そう信じて、週二回の面会のたび母と一緒にリハビリの先生に教えてもらった自主トレをし、母の部屋の空気を入れ替えてその日を待っている。

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