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男がいないと趣味のひとつも持てやしない

  ファミレスに行ったとき、最後までメニューを決められない人ってどこにでもいる。大して好き嫌いやこだわりもないのに、延々とメニューを凝視して。そもそもファミレスのメニューに大ハズレなんてそうそうないし、もしも選んだものがイマイチだったとしても、「もひとつやな」とか言いながら食べてればいいのに。些細なことでも損したり後悔するのがイヤな、くだらないセコさが原因でいつも決断力に欠けている人、誰であろうそれは私のことである。
 
 仕事で選択に迷う場面は多いけど、悪手を取っても自分の責任でリカバーすればいい、と四十半ばを過ぎてようやく肚を据えられるようになった。ところがこと人間関係になると、嫌われたくない損したくないと持ち前のセコさを発揮し、その場にふさわしい立ち振る舞いの最適解を探っては、空気を読むのに必死で何も決められなくなってしまう。もう五十に手が届く歳のくせに、一体この卑しさは何なのだ。
 人の顔色ばかり窺ってオロオロ生きてたら、いつの間にか鏡の前には、思春期の頃と変わらない自信なさげな顔の初老のおっさんがいて心底びっくりする。人間関係に悩んでいた十代の自分がこれを見たら、さぞかし「今の僕と同じこと、まだやってるの?」とがっかりすることだろう。
 
 こういうのが良くないことはわかってる。だから「何食べたい?」と訊かれたら、絶対に「何でもいい」と言ってはいけない、という女性誌の教えを従順に守り続けていた。
 とにかく何か具体的なことを言わなくちゃ、高くなくて好き嫌いのなさそうな無難なもので、うるさすぎず静かすぎず…と考えに考えて無理矢理答えをひねり出していた。その結果、飲み屋街にいるのに「……和食、かなあ?」などと抽象的かつ中途半端にめんどくさいジャンルを口にしては、かえって相手を困らせていた。何でもいいよって言ってたら、適当にその人の好きな店や馴染の店に入れただろうに。そもそも私は好き嫌いひとつない何でもOKの凡庸な人間なのに、相手の求める答えを考えすぎて、結果としていつもめんどくさい人になってしまう。空気を読んでは読み間違え、計算高いつもりが計算間違いばかりだ。
 
 自分に自信が無いなりに、進路や仕事に関しては、興味とかやりがいとか真剣に悩んで決めてきたつもりだ。そうして挫折して転職して病んでみてわかった当座の結論としては、私はそれなりにそつなく仕事をこなせるけれど、特に秀でたところもない十人並みの人間なのだな、ということだ。人生折り返してようやく体得したのは、身の程を知りわきまえるということくらいだ。
 そんな立身出世を諦めた私はふと、仕事以外で情熱を注ぐことができるものが何もないことに気付いた。徹底して主体性を放棄して生きてきた私は、その時々に付き合っていた彼氏の趣味と同化することで借りものの自分らしさを身につけようとしていた。コバンザメのように他人の興味をかすめ取ることで、底の浅い自分という器を満たす。
 
 テニス好きの彼氏ができればスクールに通い、将棋通の男と対戦するため、本やアプリで毎日詰将棋の勉強をする。痩せろと発破をかけられてはボクシングジムやパーソナルトレーナーの門を叩き、その他ピアノを習ったり、山登りの会に参加もしてみた。また、私は周囲にずいぶんなオリックスファンと認識されているが、熱狂的バファローズファンの彼氏と野球観戦デートに行く口実が欲しいだけの、彼氏に同伴するにわかファンだっただけだ。
 自分は何も持っていないことから目を背けるために、他人の興味や能力に便乗して自分も実のある人間になったつもりでいた。
 
 そんな風に男に流されるまま、「とりあえずそういうことで」と新しい男とホテルのベッドに雪崩れ込むたび、新たにその人の趣味に手を染める。そうして最終的に今、手元に残っているのはこうして文章を書くことくらいだ。もしもその最後の残渣が何もない私の唯一のものなら、これからはせめてその書くことは大切にしてあげないとね。最後に残された段ボールの捨て犬を、拾い上げるように抱きしめてみる。
 
 そうは言ったものの、自分の主体性や一貫性のないセコさやズルさがすぐには変わらないことはわかっている。だったら自分の浅はかさは開き直って、何でも体ごとぶつかって行くNGなしの若手芸人のように、どんな球でも拾うオールラウンドプレーヤーとして何でもやっていこう。そしてそのことを面白おかしく書き綴りながら折り返しの人生を楽しんでいきたい。
 ああでも、以前のようにうっかり自称SM界の重鎮と付き合ってしまって、果敢に食らいついて行っては、痛い目見ちゃう展開はマジ勘弁したいなあ。

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