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うつ病って言えなかった

  ご多分に漏れず、時々生きることが辛くなることがある者の一人だ。いや時々ではない、結構な期間、周期的にダメな時期が来る。私は双極性障害があるらしく、いわゆる躁うつ病の一種ということなのだ。~らしく、~ということなのだ、などと回りくどい表現をついしてしまうのは、長きにわたってこの病気にかかづらわっているのに、未だに自分のものとして捉えられていないせいなのだろう。
 
 十何年以上もかけた治療と投薬のおかげで、それなりの社会生活は何とか送れている。朝起きて夜きちんと眠ること、日中働いて休日は休養あるいは余暇活動を楽しむこと。いちいち確かめたりはしないけれど、それらは他人から見てもおそらく遜色なくできているだろう。波はあるもののしんどいのは自制内です、とまでは到底言えないけれど、それでも何とか、「根性根性ど根性~、どっこい生きてるシャツの中~」なんて口ずさみながら、日々暮らしてている。
 それでもしんどい。自分を励まし続けて生きていくことは、どう視点を変えようとも結構しんどいことなのだ。ほかと比べることではない。たとえそれが一億人中一億人が何とか乗り越えていることであったとしても。
 
 何がしんどいのか。それはエレベーターのように急激に上下するエネルギーにぶん回されること。
 ちょっと調子がいいな、前からやりたかったけれど出来なかったあれやこれ、少しずつ始めていこう。鬱相を抜けた頃、少しずつ自分らしさ人間らしさを取り戻していく。病気を持たない人が当たり前のようにしているであろう趣味を持つこと、自分のために勉強すること、そんなことが自分にもできるのだと安堵する。
 でもやはり、その時期は長くは続かない。芳香剤が徐々に効かなくなるように、エネルギーが枯渇して、ひとつひとつ追いつかずに手を離れていく。
 
 ここまで書いていて私は恥ずかしいと感じている。その内容や事実、自分の至らなさもそうだが、双極性障害、あるいはうつを持つ人たちにとっては当たり前であろうこんな苦労を、さも自分だけ辛いことかのように書いていることが恥ずかしい。自分だけ骨折って生きている、大変な目に遭っていると言いたいのかと思われるのが恥ずかしい。だからこれまで自分のしんどさは、診察室の中でしか言えなかった。
 でもいまは書きたい、誰かの目に触れてほしい。長い間元気がなくて、何かを伝える気力さえ手元になかったから。今なら言えるかもしれないタイミングだと思ったから。
 
 私は双極性障害を持っていること、そのこと自体も恥ずかしいことだと思っている。私は精神の調子を崩しやすいことと、他の人が抱えている持病、たとえば喘息、片頭痛、アレルギー性鼻炎、どれも大変だしどちらの方が大変かなんて比べられないことはわかっている。喘息を抱えている人を恥ずかしいなんて思ったことないのに、自分の気分障害は恥ずかしいと思っている。私の心が弱いのは、自分の鍛錬が足りない甘ったれた性質、育ち、そういったものに帰結すると思っているから。こうなったのは自分のせい、自己責任だと思っている部分も多分にある。
 
 私は精神科領域以外においては全くの健康体で、風邪もほとんどひかないし、頭痛も年に一度あるかないか、花粉症をはじめあらゆるアレルギーとも無縁だ。業務上、様々な疾患で辛い思いをしている患者さんたちの話を聞いて助言めいたこともしているが、実際のところの本当の辛さなんて1ミリもわかってはいないのだと思う。
 
 だからこそ、外から見えない客観的結果の出ない病気のつらさをわかってもらうのはなおさら難しい。どうしたらいいのだろう、途方に暮れてしまう。わかってもらうには相応のエネルギーと工夫を要することはわかっている。ところがその辛い時期には、わかってもらうことに注ぐエネルギーは枯渇していて、とりあえず日々死にそうな顔をしながら目の前のベルトコンベヤー上の仕事を片付けて波が過ぎるのを待つだけだ。そして波が過ぎてしまうとこんどは喉元過ぎた熱さを忘れてしまい、切実な苦しみをきちんと伝える術を失ってしまう。
 
 しんどい時期は、仕事以外の時間床に臥せていることが多い。何もしたくないし、活動量が極端に減る。そんな様子を見て妹は、「それほんま生理やな」と言う。私は女性のことを何も知らない。女性に対して全く興味も知識もないので、月経の辛さが全く分からない。でも月経と付き合って何十年も経つ妹が言うのだからそういうものなのかもしれない。死にそうな顔で臥せっている私を見て妹は、「また生理入ったんかいな」と、おつかれさん、というようなニュアンスで言う。
 
 そう言えばいまの職場に転職した時、一緒に働く年下の先輩女性から、「生理のとき調子崩してご迷惑をお掛けするかもしれませんがすいません。」と言われ驚いた。確かに線が細く比較的体の弱い人ではあったけれど、体調や態度に極端な振れはない人だったし、当然ながら他人から見て「調子悪そうだけれどいま生理中なのかな」と思うようなことはなかった。何より比較的若い女性が、まだあまり面識のない中年男性に堂々と自分の体調について、特に生理というデリケートなこと関して率直に口にされたのは驚きであった。その女性が元々オープンな性格でざっくばらん、豪快な性格であったりしたなら違和感もなかったのかもしれないが、普段は控えめであまり自分のことを話さない、物静かなタイプのひとであったからこそインパクトのある出来事であった。
 
 もしかしたら彼女もそれまでの人生、病弱なことで、月経に振り回されることで何度も苦しい経験や悔しい思いを何度もしてきて、積極的に伝えるようにしてきたのかもしれない。私も彼女のように、必要な人には会って早々に自分の持つ生きづらさについて積極的に自己開示していくべきなのかもしれない。毎日多くの患者を診る医者でさえ、どんな知識を持っていても結局のところそのつらさまでは実感できない。ならば言葉にして伝えていくしかないのだ。恥ずかしさの壁をよじ登って、超えていくしか。
 先述の元同僚女性は結婚を機に遠方に引っ越され、転職された。彼女もまた、新天地で自らの弱点をオープンにして暮らし始めているのだろうか。

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