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#009お和尚さんが教えてくれた「自分に自信を持つ方法」
個の時代、誰もが発信者・表現者になる時代と言われるほど社会が急速に変化する一方で、自分の考えや行動に自信を持てずに悩む人々も多く存在するんだろうなぁ、と学生や後輩たちと触れながら感じる今日この頃。
友人が心の休息を求めて立ち寄ったお寺で、ある和尚さんから教えられた説法について教えてくれた話から、「自分に自信を持つ方法」を僕なりに解釈してみました。
寺で耳にした説法:「坊主、はじめてのおつかい」
ある日、人里離れた山奥の寺で修行中の若い坊主が和尚さんからおつかいを頼まれました。
「大切な客人に手紙を出すので良い紙を買ってきてくれ。値段は問わない。とにかく良い紙を。」
まだ年端も行かぬ坊主には、”良い紙”をと言われたところで紙の良し悪しなど分かるわけもないのですが、和尚さんが欲しいものを詳しく聞こうにも和尚さんは忙しそう。これは仕方ないと、坊主はとりあえず山を降って町で自分が良さそうだと思った適当な紙を見繕ってきます。
「紙を買ってきました。どうでしょう。私的には良いと思うんですけど...、どうでしょう...。」
坊主は和尚さんに恐る恐る買ってきた紙を渡しました。
これではダメだと買い直しになることを考えると非常に面倒です。とはいえ、買ってきた紙が正解かも分からないので、もうとにかく和尚さんが気に入ることを願うばかりです。
受け取った紙を眺め、和尚さんが尋ねます。
「君は、この紙のどこが気に入ったんだい?」
「えっ...、ええと...。なんか手紙を書くのにちょうど良い感じだと思って...。」
まさか、自分が紙のどこを気に入ったかを聞かれるなんて思ってもいなかった坊主は上手く答えられません。すると和尚さんはこう言います。
「うん、すまぬがもっと良いものを買ってきておくれ。」
失敗したと焦った坊主はもう一度町に出かけて紙を探します。
そこで、高級な紙なら和尚さんも気に入るだろうと考え、先程よりも値段の高い紙を買って帰りました。さて、坊主が買ってきた紙を見て和尚さんはどこが気に入ったのか尋ねます。
「これは...、高級な紙です...、値段が高いのです。だからきっと文字も書きやすいし、たぶん良いものなはず...、です...。」
すると和尚さんは、またもこう言います
「うん、すまぬがもっと良いものを買ってきておくれ。」
またやり直しです。この後も何度もお使いに行ってはやり直しを繰り返し、ヘトヘトになった坊主はついに和尚さんに尋ねました。
「はぁ。はぁ。もう、どうしたらいいんですか...。どんな紙ならいいんですか!」
和尚さんはこう言いました。
「正直、紙は最初のでも、次のも、その次のも、どれも良かったのだよ。」
「はっ!?」(°_°)
「決め手がなかったのは、君の気持ちです。私は君に指示と一緒に迷いを渡した。
若い君が紙に詳しくないのもわかっていたが、それでも自分なりに考えて選んでくれたものなら何でも良かったんです。少し意地悪をしてしまったが、君のおつかいには迷いはあったが自信が足りなかったのだよ。」
さて、いかがだったでしょうか。
きっと真面目で不器用な性格であろう坊主が苦悩する様子に居た堪れない気持ちになりながらも、このお話からは色々なことが考えられそうです。(ついつい、早く答えを教えてあげなよ!意地悪かよっ!て思ってしまう気持ちは置いておいて)
中でも、やはり和尚さんの言う“自信を持つこと”については日々、何事にも自信が持てない自分に悩んでいる人も多いのでは?と感じる部分です。
論理は後回し。まずは自分の感性に胸を張ることから。
自信ある?と問われると少し「Yes」と言うのに躊躇してしまう。そんな場面は日常でちょくちょくあるような気がします。(特に若いうちは)
何となく自分の中では、良い判断をしている気がするし、イケてる気がする。だけど、それを左脳的に論理立てて誰かに伝えられるほどトークに自信がなかったり、判断の根拠やそれを支える知識は足りていない。
おそらく、和尚さんからおつかいを頼まれた坊主もそうだったのでしょう。
一回目の買い物で選んだ紙も何となく坊主的にはイケてると思ったはず。
二回目の買い物では高級な紙を見つけて、これは一回目に選んだ紙よりいい感じだと思ったはず。
だけど、その自分的に何となくイケてると思った自分の感性に堂々と胸を張って和尚さんにプレゼンテーションできなかった結果、なんのヒントも得られず何度も買い直しに行くハメになってしまいます。
一回目の買い物でも坊主はヒントゼロの状況から、自分の感性を稼働して答えのないお題に応えようとしています。しかし、それを堂々と伝えることを躊躇し、「私的には」、「きっと」、「たぶん」のような言葉で自分の判断を濁しながらプレゼンテーションをしてしまった。
だけど、この堂々としていない、自信がない様子は相手に伝わってしまうんですよね。
その時の相手の感情は「こいつちゃんと考えたのかな?」、「こいつ雑におつかいをこなしてるんじゃないか」とそんなところでしょう。
こうなってしまった時点で、もう相手は「大切な客人に手紙を書くためにより良い紙を手に入れる」という目的のために、あなたとより良い手法を話し合ったり、どんな紙が相応しいのかを擦り合わせたりする気が削がれてしまいます。
もう一つ、例えばあなたがレストランのお客さんだとしましょう。メインディッシュを選ぼうとするあなたにシェフが2つのパターンでステーキをオススメしてきます。
パターンA:
肉の産地とかは分からないんですけど、たぶん美味しいと思います。
パターンB:
鹿児島の黒毛和牛を私が市場で実際に食べ比べて、その時期に一番状態が良い肉をお客様のお好みの焼き加減で提供します。
このプレゼンテーションは一見、パターンBの方が論理的に聞こえますが、実際はどちらも主観のみで構成されています。
鹿児島の黒毛和牛を使うのも、その中から実際に食べ比べて良いものを選ぶのも、その時期に一番状態が良いと思うものを選ぶのも、好みの焼き加減というのも、全てはシェフの主観的な「良い」でしかありません。
もちろん、肉の産地や状態の判断には科学的・論理的な見解も含まれているはずですが、少なくともプレゼンテーションにそこは含まれていません。それでも、パターンBのプレセンテーションをされたほうが、よりステーキを食べたくならないでしょうか?
謙虚な姿勢を添えて、あなたの感性をぶっちゃけてみる。
謙虚な態度は人に不快感を与えないためにも大切にしなければならない、と僕たちは先人から学んできましたし、特に日本人は奥ゆかしさやが美徳とされてきた歴史があるでしょう。
だけど僕は、謙虚に生きることと、堂々としていないことは全くの別物だと思うのです。
もちろん、多くの人が他人から「もっと自分に自信を持て!」なんて言われても、どうすればいいのか分からないというのが本音なはず。
なぜなら、自信というのは日々の研鑽や努力の積み重ねの上にしか存在しないし、たとえどんなに自分を高めてきても、その自分を信じるというのはまた別の行為ですからね。
そう思うと、やっぱり自信を持てない私たちにできることは二つだけなのではないでしょうか。
一つ目は、「自分が感性でしたイケてると思う判断を、穴だらけの論理のままぶっちゃける」
二つ目は、「そのぶっちゃけに対する意見を受け止め、使えそうなものを感性で判断して取り入れる」
もちろん、科学的・客観的根拠を集め、論理的に考えた秀逸な判断や意見を常日頃から量産できればいいのですが、それができるようになるには研鑽や努力の積み重ねが必要です。でも、その研鑽を自分一人で突き詰めていくことはとても難しい。
だって、私たちが日々の生活の中で迫られる判断には、必ずしも絶対の正解があるわけではないので一人で悶々と考えていたって悩むだけ、結局その先にある“自信が持てないスパイラル”に嵌まってしまいます。
そうならないためにも、「私はこれがイケてると思います!論理や根拠は穴だらけですが何か?」というテンションでとりあえず、相手に伝えてみるのもいんじゃないかと思うのです。
こんな風に自分の意見は穴だらけかもしれないことは認めて、弱いまま堂々としていればいい。
そこに「あなたの意見も聞きたいです」という私たちが得意な謙虚な姿勢を添えておけば、きっとあなたの判断や意見をブラッシュアップするヒントをくれる人が現れるはずです。
「それ、あなたの主観ですよね」というキラーワードで様々な人を論破していくスタイルが人気を呼んでいるYoutuber?がいますが、私は何事も、一人ひとりが堂々と「主観」を話すことからしか物事は前に進まないと思うのです。
僕らが生きている世界は「論で相手を破る・倒す」ことに執着するだけの悲しい世界ではないはずだと思いたいし、冒頭の説法に登場する和尚さんのスタンスのように「あなたの感性」、「あなたの主観」をきっと素敵だと認めてくれる人だって沢山いるはず。
自分に自信が持てない人が少しでも自分の感性をぶっちゃける勇気を持てること、そして論破系Youtuberではなく、説法の和尚さん的スタンスの人と一人でも多く出会えたらいいなぁと思う今日でした。
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