【小説】烏有へお還り 第10話
第10話
下駄箱の前で上履きに足を入れたところで予鈴が鳴った。
重い脚を引きずるようにして教室へ向かう柚果を、遅刻ぎりぎりでやってきた生徒が次々と柚果を追い抜いていく。
今朝は食欲が湧かなかった。柚果の調子が悪いと気づいた母がピリピリした空気を出すので、余計に気が滅入った。
母が目を吊り上げて怒り出しても、本当は学校を休みたかった。いったいどんな顔で伊佐治たちと顔を合わせたらいいのか。
玄関でのろのろと靴を履いていると、隅に置かれている弟のスニーカーが目に入り、なおさらもやもやとした気持ちになって家を出た───。
教室に到着する。今すぐにでも踵を返して家に戻りたい気持ちで、柚果は扉を開けた。その途端、すぐそこに立っていた伊佐治と目が合った。
思わず息を詰めた柚果に、伊佐治はまるで気づかないふりで顔を背け、自分の席へ立ち去る。伊佐治の取り巻きの男子二人もまた、柚果の姿をちらりと見たものの、黙って席へ戻っていった。
なにか企んでいるのではないか。そんな疑いが生じた。けれども、彼らは煙草を吸っているところを柚果に見られている。弱みを握られたと思っているのかもしれない。
学校で顔を合わせたら、どんな報復を受けるか。昨夜から考え続けていた悪い想像が、いい意味で裏切られてほっとする。
もしあの写真が残っていたら、とても安心などしていられなかっただろう。すべて和志のおかげだ。
「ありがとうございました」
伊佐治たちが逃げ去った後、柚果は和志に向かって頭を下げた。
さんざん泣いたので、きっと酷い顔をしているだろう。まだ恐怖は完全に冷めやらず、恥ずかしさもあって顔が上げられない。
「別に」
和志は短く言うと、そのままもと来た方へ戻っていく。
「あ、あの!」
慌てて柚果が叫んだ。和志が足を止め、振り返る。
「あの、わたし、この前、秀玄彫り体験の時に……」
迷いながら言葉を探していると、
「……ああ」
和志が眉を上げた。柚果を覚えていたと知り、耳が熱くなる。
「あの時彫ってもらった板、わたしの宝物なんです」
机の上に飾った板を思い浮かべる。
「あの、すごく上手で、見とれちゃって……」
他にもっと相応しい言葉があるはずなのに、浮かんでこない。
「別に、普通だよ。あんなの」
和志が首をすくめた。柚果はもどかしい気持ちで、両手を握り合わせた。
「また見たいなって、今日来てみたんですけど、でも、教室覗いてもいなかったから……」
そう言って、多目的室の窓に顔を向ける。和志は「ああ」と頷くと、
「この前は、たまたまじいちゃんに呼ばれたんだ。人が足りないからって」
と言った。「じいちゃん」というのが、あの紺色の作務衣の男性を指しているのだとすぐにわかった。
「あそこが加工場。普段はあそこで作業してる」
そう言って和志が雑木林の奥を指さす。木々の向こうに、よく見ると倉庫のような古い建物が立っていた。
「たまたま外に出てきたら、あんたとあいつらが見えて、なんか様子がおかしかったから」
そこで言葉を切り、和志が伊佐治たちの立ち去った方向を眺める。
「本当にありがとうございました」
柚果がもう一度頭を下げると、和志は照れくさそうに唇をひねった。
「あいつら、同じ学校?」
「……はい」
学校。考えたらおのずと声が低くなった。月曜日に彼らと教室で顔を合わせたらどうなるのか。気が重い。
ふと見ると、和志もまた険しい顔をしていた。柚果のことを心配しているのかもしれない。そう思ったら、少しだけ心強い。
遠くから、夕方を告げる音楽が響いてきた。柚果が時計に目をやると、
「もう帰りな」
和志が言った。「こっち」と歩き出した背中を、柚果は慌てて追いかける。
駐車場を通り過ぎ、門まで来ると、
「人通りの多い道を通って帰りな」
和志がそう言って、柚果を見送るように立ち止まる。
「あの、名前を聞いてもいいですか。わたし筧柚果って言います」
急に恥ずかしくなって、言いながら手で髪を撫でつけた。彼も照れくさそうに顔を背けると、
「……宗田和志」
ぼそりとつぶやく。ああ、やっぱり「和志くん」で正しかった。
「……あのぅ、また来てもいいですか」
柚果が尋ねた。和志の返事を待つほんの一瞬が、とても長く感じられる。伊佐治たちに脅された時とは違う痛みが胸を刺した。
「木曜日と日曜日は休みだけど、それ以外は加工場の方にいるから」
和志が言った。小さく「じゃあ」と呟き、足早に戻っていく。その後ろ姿を見送った───。
これって、OKってことだよね。担任が教室にやってきて出席を取る間、柚果は何度も自分に問いかけた。
また会える。それが嬉しい。
「柚果ちゃん」
一時間目の理科室へ向かおうと、教室を出たところでふいに呼ばれた。隣の教室の扉の前で、志穂が柚果に向かって手で合図をしている。
『あいつの良い人アピール、超ウザイんだけど!』
トイレで聞こえてきた二人の声が耳に蘇る。柚果は曖昧に手を振り、その場を立ち去った。
同情はいらない。そんなもの必要ない。
和志のように、凛としていたい。板を彫っている時の横顔を思い浮かべながら柚果は思った。