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【小説】コトノハのこと 第12話

   第12話

 口がきけなくなったが、それについて大きな問題はなかった。台所には妻の姿がなく、二階にある、かつての子供部屋に閉じこもっているようだ。私を避けているのだろう。

 腹が減ってダイニングへ行くと、いつの間にかラップをかぶった一人分の食事が用意されている。

 階段の下から二階を見上げた。筆談を試みようかとペンを取ってみたが、言葉がなにも浮かんでこなかった。

 詰将棋をする気分になれず、畳の部屋でぼんやりと庭を眺めて時間を過ごす。静まり返った家を突如震わせたのは、夕方に鳴り響いた電話だった。

「はい、もしもし」
 ちょうどトイレから出ると、二階から降りてきた妻が廊下で受話器を持ち上げるところだった。

「ねえ、ハナがそっちに行ってる?」
 大きな声が、離れた私のところまで聞こえてきた。娘のものだ。

「ハナちゃん? いいえ、来てないわよ」
 妻が首を振った。孫が一人だけでこの家に来たことはない。

「ハナちゃんがどうかしたの」
 妻の声に緊張が走る。私は受話器を握る妻に近寄った。

「いなくなったの!」
 娘の叫び声が、私の心臓を絞り上げた。妻が目を見開き、私を振り返る。

「いなくなったって、どうして? 今どこにいるの?」
「うちの近く。あたしがちょっとハナから離れてる間に、いなくなっちゃったの!」
 娘が叫んだ。声が涙で濡れている。

「だって、ハナが……他のお友達はみんなちゃんと挨拶できるのに、ハナだけなにも言えないんだもん。恥ずかしくて、うちに帰る途中に腹が立ってきて、『そんなにお話しするのがいやなら、一人ぼっちでいれば!?』って、あたし、ハナのこと置きざりにして……」

 娘の嗚咽が続く。

「落ち着きなさい。どこに置いてきたの。家の近くってどこ」

「マンションの横の公園。目を離したのは五分くらいなのに、どこにもいないの!」
 最後まで聞く前に、私は玄関へ飛んで行った。

「大丈夫、落ち着きなさい。今、お父さんがそっちへ向かうから」

 靴を履いていると、妻の声が聞こえてきた。ひょっとしたら孫がここへ来るかもしれない。妻にはここで待機して欲しかったが、どうやらわかっているらしい。ありがたかった。

 娘の住むマンションまで、歩いて二十分ほどの道のりを走った。こんなにも必死で走ったのは何年ぶりか、気持ちは焦っているのに足がもつれて、もどかしかった。

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