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【短編小説】捨て猫リカ 第5話

   第5話

 ランチタイムも過ぎた夕方前の喫茶店は客もまばらで、落ち着いた空気が流れていた。おかげでわたしはここがどこであるかも忘れ、夢中で相手の話に聞き入ることができた。

「ありがとうございました。それでは、最後にもうひとつだけ」
 ノートに走らせていたペンを止めた。相手の女性に目を合わせ、居住まいを正す。

「こういった活動を続けていく、モチベーションのようなものはなにかありますか」

 女性は口をきゅっとすぼめてわずかに考えると、

「やはり、子供たちの笑顔に出会えることだと思います」
 と言って顔をほころばせた。キュートな八重歯に、つられてこちらも笑みがこぼれる。

「本日はありがとうございました」

 改めて深く頭を下げた。女性は笑顔で目礼し、こぼれた髪を耳にかける。
 ミニコミ誌の取材だった。わたしよりも少し若いくらいのその女性は、ボランティアで支援学校やフリースクールなどをまわり、単発の料理教室イベントを行っていた。

 菜摘のママ友達からたまたま情報を仕入れ、彼女の取材をしたいと企画を立ち上げたら、ウェブサイトの方で掲載することになったのだ。

 料理教室イベントに同行して写真を撮り、その後、喫茶店に移動してインタビューのために時間をもらった。

 普段は週に四日、事務所でパソコンを相手に編集の仕事をしている。やり取りはほとんどメールなので、こうした直接の取材は珍しく、つい張り切ってしまう。

 会釈を交わし、彼女の後ろ姿を見送った。ふと時計を見ると、もうすぐ三時だった。菜摘もそろそろ学校から帰っているだろう。駅前には学生の姿もちらほら見え始めた。わたしは駐車場に足を向けた。

 その時、少し離れた場所で、くるりとこちらに背を向けた後ろ姿が視界に入った。はっとして目を凝らす。

「あ」
 小さく声をあげた。後ろ姿の女の子が駆け出す。

「理加ちゃん!」
 紙のような薄いアキレス腱。靴から飛び出た踵。見間違えようがない。彼女は足を止め、振り返った。

「あっ、貴子さん」
 丸く見開いた目が、たちまち三日月形になる。まるでドラマのように、両手を開いて駆け寄ってきた。

「こんなところで会えるなんて、うれしいです!」
 思わず言葉を失った。ためらいながら、

「ごめんなさいね、急いでた?」
 と尋ねた。

「いえいえ、全然ヒマですよ」
 彼女はにこにこしながら首を振ると、

「ごめんなさい! お借りしたお洋服、早く返さないといけないって思っていたんですけど……」
 顔の前で両手を合わせた。

「制服を汚したことがばれて、罰としてスマホを取り上げられちゃって」
「伯母さんに?」

 とっさに尋ねた。しかし理加はきょとんと目を丸くする。

「あの……ご両親はいなくて、伯父さんの家に住まわせてもらってるんだったよね……?」
 戸惑いながら尋ねた。自分の聞き違いだったのかと自信がなくなり、語尾が消え入りそうになる。

「あっ、そうですそうです。伯母に取り上げられてしまって……」
 そう言って理加はたちまち顔を曇らせた。わたしは妙に居心地が悪いような気がしてきて、耳の後ろを掻いた。

「ええと、元気だった?」
「はい」
 理加が頷いた。相変わらず身体は細く、顔色もあまり良くないが、受け答えはしっかりしている。

「それじゃあ……またね」
 言葉が見つからないまま、彼女に半身を向けようとした時、

「貴子さん。お忙しいんですか」
 理加がふいに尋ねてきた。

「ううん、仕事が終わったから家に帰るだけ。子供が帰ってくる時間だから、ちょっと急いでるけど」
 わたしの答えに、彼女が目を輝かせる。

「えっ、お子さんって何歳ですか? わたし、子供大好きなんです」
「小学二年生。もうすっかり生意気盛りよ」
 トートバッグの紐を肩にかけ直した。ちらりと時計に目をやる。

「今から貴子さんの家に遊びに行ってもいいですか?」
 理加が大きな瞳を輝かせて尋ねた。

「あっ、急にごめんなさい。ダメですよね」
 指で小さくバツを作りながら上目遣いでこちらを見る彼女に、

「ううん、もちろんいいわよ」
 慌てながら答えた。理加が「やったあ」と小さく飛び上がる。

 車の中で、バックミラー越しに彼女に目をやった。前にこの車に乗せた時のように、泣いても怯えてもおらず、楽しそうに窓の外を眺めている。

『今から遊びに行ってもいいですか』

 そう訊かれて、とっさに言葉が出なかったのは、引っかかっていたことがあるからだ。わたしが声をかける直前に、走り去ろうとする後ろ姿───。

『本当は逃げようとしたんじゃないの? わたしの姿を見つけて』

 口に出せなかった質問は、拭えない疑いになって、じわりと胸を染めていく。彼女を家に招いたことを後悔する気持ちが浮かんできた。

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