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【短編小説】望月のころ 第9話

   第9話

 遠くでざわめきが聞こえる。

 廊下に誰もいないことを確かめると、僕はそっと図書室の扉を開け、身体を滑り込ませた。

 夏休み前の短縮期間は、給食を食べたらすぐに下校だ。昼休みがなく、放課後も図書室は解放されない。

 けれども、鍵がかかっていないのは知っていた。だからこうして、読み終えた本を返して新しい本を借りるために、忍び込むことは初めてではなかった。

 図書室は普段と違って薄暗く、空気が重い気がした。吸い込むと、みぞおちがぐっと押し込まれるような感覚がする。

 明かりをつけるわけにはいかない。カーテンも閉まっているが、慣れてくると本を探すには充分な光があった。

 ランドセルから本を取り出した。図書カードには念のために返却日を改竄して書き込んでから、元の本棚へ戻す。

 次に借りようと目をつけていた本を集め、こちらも貸出日を改竄した。すべてやり遂げると、緊張感が溶けて代わりに充実感がこみ上げてきた。

 借りた本をランドセルにしまうと、いくつかの本の背表紙が気になった。面白そうなタイトルが僕を呼びとめる。思わず手に取った。

 薄暗くて静かな図書室で、誰にも邪魔されずに本が読める。これほど贅沢なことはない。

 一体どのくらいの時間が経ったのか、僕の周囲には読み終えた本が山のように積まれていた。『ぼくは王様』シリーズ、『海底二万里』『宝島』『小公子』『小公女』『若草物語』『トム・ソーヤーの冒険』。

 背後には世界の偉人シリーズが並んでいる。表紙の肖像画が僕を見つめている。『エジソン』『ヘレンケラー』『ナイチンゲール』『野口英世』『ファーブル』『キュリー夫人』。

 手にしていた『ズッコケ三人組』シリーズの一番新しい本に目を戻すと、すぐそばに誰かが立っていることに気が付いた。

 驚いたが、声は出さなかった。静かにじっと僕を見下ろしているのは背の高い男の人で、眼鏡をかけている。

 先生ではないと思った。特有の緊張感のようなものがまったく感じられないからだ。それどころか、なんだかぼんやりしている。

「本、面白い?」
 男の人が尋ねた。

「うん……」
 僕は少し恥ずかしくなって、手にしていた本の表紙を手で隠した。男の人は目を細め、それから僕の後ろにある本棚を見つめた。

「あっちの方に」
 そう言って右手を上げる。僕は振り返った。本棚に目をやり、もう一度男の人に目を戻す。

 男の人の目は、本棚を通してそのずっと先にあるものを見ているようだった。僕もつられて、同じように本棚のずっと先にあるものに目を凝らす。

「きみと同じ本を読んでいる女の子がいるんだ」
 男の人の声はなんだか寂しそうだったけれど、それよりも僕はその言葉の方が気になった。

 同じ本って、今手にしているこの本かな。それとも、ここにいっぱい積んである本かな。
 きっと両方だ。だとしたら、僕がこれから読む本だって同じだろう。僕はそんな女の子に、今まで会ったことがない。

「その子に会ってみたい?」
 男の人が尋ねる。その顔に見覚えがあるような気がした。前にどこかで会ったのかもしれない。

「うん、会いたい」
 迷わず答えた。男の人は遠くを見るのをやめ、僕をじっと見下ろす。さっきまでのぼんやりした顔ではなく、まるですべてを見透かすようにじっと見続けている。僕はぎゅっと身体をすくめた。

「その女の子とは、結ばれないかもしれない。つらい思いをするかもしれない。それでもきみは、会いたいと思うかい?」

 男の人が言い終わらないうちに、僕は強く頷いた。

 その女の子はきっと、僕がこれまでずっと会いたいと思っていた特別な女の子だ。
 他の子じゃだめだ。その子じゃないとだめなんだ。

「そうか」
 男の人はまるで痛みを我慢しているみたいに微笑んでから、力強く頷いた。「わかった」

「ねえ、いつ会えるの?」
 僕は読んでいた本を閉じた。

「早く会いたい」
「もうすぐ会えるよ」
 男の人がそう言って、僕の肩に手を置いた。

 その顔をじっと見つめる。やっぱり知っている顔だ。見ていると思い出せそうな気がするんだけどな。

 その人の目に僕が映る。近づいているわけじゃないのに、どんどんはっきり見えてくる。

 瞳がまるで鏡のように僕を映し出す。そこで僕はやっと、彼と自分が誰だったのかを思い出すことができた。

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