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【短編小説】捨て猫リカ 第2話

   第2話

「待ちなさい!」
 わたしの叫び声に女子高生は振り返って目を見開くと、慌てたように走り出した。

「待ちなさいってば!」
 周囲の人たちが驚いたようにわたしを見、目線の先にいる女子高生に顔を向ける。彼女は空を踏むような走り方で、一目散に逃げ続ける。

 高校時代は陸上部だったわたしだ。二十年近くも前のことで、選手にもなれなかったが、ぶかぶかの靴を履いて逃げる鳥ガラのような女の子に追いつくなど造作もない。あっという間に彼女の腕を掴んだ。

「……あなた」
 一瞬だけ躊躇したのは、もしこれが勘違いだったらという考えが浮かんだからだ。けれども、逃げたのがなによりの証拠のはずだった。

「そのポケットの中、ちょっと見せて」
 店の者でもなければ、万引きGメンでもない。けれども目の前で起こったことを見過ごすわけにいかない。

 女の子はがくりとうな垂れた。体中からだらりと力を抜き、そのまま座り込もうとする。

「こら、ちゃんと立ちなさい! さっきのお店であなたがしたこと、見てたんだからね!」

 その子の腕をぐいと引っ張って立ち上がらせようとするが、反対に彼女はますます力なくへたり込む。

「ちょっと……」
 言いかけて気がついた。女の子は小刻みに震えていた。最初は演技かと思ったが、まるで痙攣のように全身をガタガタと震わせている。周囲を通り過ぎていく人たちも、なにごとかとこちらを見ている。

「あなた、大丈夫?」
 気分でも悪くなったのかもしれない。彼女の背に手を添え、うな垂れた顔を覗き込んだ。途端に、足元でぴちゃっと音がした。水溜りがある。

 もう一度よく見ると、それはただの水溜りではなかった。彼女の足元に広がったそれは、スカートの奥からまだわずかに滴り落ちていた。つんとした匂いが鼻を突く。

「きゃあ! ちょっと!」
 慌てて飛び退いた。腕を放された彼女は深く沈みこみ、相変わらず震えている。意を決し、匂いのする液体を踏むことも厭わず、彼女の肩を支えた。

「どうしたの? どこか苦しい?」
 これで答えないままなら、救急車を呼ぶところだ。しかし彼女は首を振り、わたしを見上げた。その顔は涙でびしょびしょだった。

「……すみません……」
「謝るよりも教えて。どうしたの? 具合悪いの? 病院に行く?」
 辛抱強く尋ねるわたしに、

「いえ、わたし、すぐこうなっちゃうんです。すみません……」

 消え入りそうな声で答える。頬にも肉がなく、尖った顎をしているが、目は大きく、まるで小動物のようだ。怯えの色を滲ませたその顔を見ているうちに、わたしのおせっかい虫が疼きだす。

「家はここから遠いの?」
「バスで二十分くらいです」
「その格好じゃバスに乗れないじゃないの」

 しゃがみこんでしまったので、スカートの裾まで濡れてしまっている。下着や靴下もおそらくびしょびしょだろう。

「電話したら、お家の人が迎えに来てくれる?」
 彼女が首を横に振った。

「今は仕事中なので……無理だと思います……」
「わかったわ。じゃ、おいで」
 わたしは彼女の手を取った。不思議顔の彼女に、

「わたしの車に乗って、とりあえずうちにいらっしゃい。着替えを貸してあげるから」

 言いながら、自分でも呆れていた。まったく、どうかしている。

 だが涙に濡れた目元をホッとしたようにほころばせた彼女の顔を見て、わたしの後悔は半分ほどに減った。心細い様子が健気に思えてきて、わたしは彼女のポケットに入っている会計済みでない商品を忘れそうになる。

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