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【小説】コトノハのこと 第6話

   第6話

 次の日はいつもより早く身支度を整え、新聞を広げながら妻を待ち構えた。

「あら早いのね。ごはん、ちょっと待ってて」

 妻の言葉に、私はいくぶん緊張しながら、
「うん」
 と答えた。新聞の文字がちっとも頭に入ってこない。

 普段と同じように過ごそうと思ったが、詰将棋も集中できないのでやめてしまった。
 私が恐れつつも待っていた瞬間は、夕飯の時にやってきた。

 つけっぱなしのテレビでは、旅番組が流れていた。空撮された一面の雪景色に、妻がため息をつく。

「兼六園は昔一度だけ行きましたけど、今はあのころよりも混んでるでしょうねえ」

 独り言のような妻の言葉に返事をするかどうかためらったが、黙っていることにした。

「北陸新幹線にも、一度くらい乗ってみたいと思ってるんだけど」
 妻はテレビの画面を目で追いながら呟いている。

「蟹しゃぶですって、いいわね」
 じっと返事をしないままの私に、妻が顔を向けた。気を悪くしたのか、眉を寄せている。

「そうだな」
 と相槌を打った途端に、背中にじわりと汗が浮かんだ。煮物を口に運ぶが、味がまったくわからない。
 食事を終えて箸を置いた時、妻が尋ねた。

「いただきものの羊羹があるけど、食べる」

「うん」という返事はひゅうっという小さな空気の漏れに取って代わった。私は立ち上がり、慌てて自室に駆け込んだ。

 念のため、下腹に力を入れてみる。けれども声は出ない。

 仮説は当たっていた。一日に五回。それが私が話すことのできる回数だった。

 一体いつから始まっていたのだろう。耳の奥に、妻の言葉が蘇る。

『あなたが今日一日でしゃべった回数。たったの五回』

 あの時はもう既に始まっていたのだろうか。これまでずっと気づかずに過ごしていただけなのか。
 最後に妻としっかり会話をしたのはいつだったか。考えてみても、まったく思い出せなかった。

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