シェア
第1話 生暖かく湿った風がアスファルトの敷地を這うように近寄ってきて、屋台のテントや幟をはためかせた。結わえた髪がほつれる。 蛍光色のスタッフジャンパーに身を包んだ少し太めの女性と共に、さな恵は幟の刺さっていたスタンドに手をかけた。 「せーの」 声をかけ合い、重量のあるそれらを台車の上に載せる。うまくタイミングを合わせれば、驚くほど重さを感じない。 すべてのスタンドを台車に並べ終えると、さな恵は軍手をはめた両手をはたいた。砂ぼこりが舞う。乱れて口紅に貼り
第2話 張り出した屋根の下で待っていると、目の前にダークグリーンの車が停まった。運転席の吉川が手で合図をする。 後部座席には女の子が二人乗っていた。髪の長い子には見覚えがある。確か、ドリンク売り場にいた子だ。 「すみません、ありがとうございます」 助手席に乗り込み、雨が振り込まないように慌ててドアを閉めた。後部座席の二人にも「こんにちは」と挨拶をすると、 「こんにちはー。てか、お疲れさまでーす」 長い髪の女の子がそう言って、指を使ってなにかのポーズをした
第3話 ずいぶん遅くなってしまった。ひょっとしたら置いて行かれたのではないかという悪い想像が頭をかすめたが、さっきと同じ場所にダークグリーンの車体を見つけた。安堵して走り寄る。 「えっ、どうして」 車中には人の姿がなかった。運転席のシートが外灯に照らされている。もちろん後部座席にも誰も乗っていない。 車を間違えたのかと、辺りを見回した。けれども、さっき車を停めた場所で間違いない。念のため、車の中を覗き込んだ。バックミラーにぶら下げられたお守りのようなものにも
第4話 「え、ヤバっ! マジでヤバ!」 甲高い声が教室に響いた。すぐ近くに座っていた柚果の鼓膜が震え、肩がびくりと上がる。手にしていたノートが、バサっと大袈裟な音を立てた。 柚果の席から狭い通路を挟んだ隣の席で、めいっぱい足を投げ出して座っているのは亜美だ。 会話の相手はすぐ目の前におり、そこまで大きな声を出す必要はない。 わざとだと、柚果にはわかっていた。昼休みにたった一人で過ごしている柚果に対して、マウントを取っている。 自分は一軍で、スクールカ
第5話 ガレージに車がないのは、母がまだパート先から戻っていないことを示している。ドアの前で足を止めると、柚果は背負っていた通学鞄を下ろすために、手にしていたサブバックを両足の間に挟んだ。 教科書とノートがパンパンに入った通学鞄は重く、滑り落ちそうになるそれを片手で抑えながら、もう片方の手で留め具を外す。水筒が入っているサブバックもずっしりと重い。 ようやく取り出した鍵を差し込み、開錠してドアを開いた。その途端、玄関の隅にきちんと揃えられたスニーカーが目に入
第6話 「はい、みんな注目」 体育教師が両手をパンと打ち合わせた。女生徒たちがひそやかなおしゃべりをやめ、顔を向ける。 「これからマットを使って倒立前転をしていきたいんだけど、今日はその前に、まず倒立の練習をします。この中で、壁倒立ならできるよって人、手を挙げて」 体育座りの女生徒のうち、全体の四分の一くらいの手がパラパラと上がった。続けて、肘を曲げたままの自信なさげな手がいくつか後に続く。 「いいじゃん、思ってたより多い」 教師がくだけた口調で言った
第7話 「次の信号を、左折して下さい」 カーナビの音声が静かな車内に響いた。 車は緩やかな坂を登っている。窓の外に目をやると、紅葉を終えた葉がはらはらと舞っているのが見えた。 「なんとか間に合いそうだな。道が空いててよかったよ」 運転席の父の言葉に、母は時計を睨み、 「だから、もっと早く出ようって言ったのに」 と不機嫌を露わにする。 「いいじゃないか、間に合ったんだから」 のんびりと父が言った。なにか文句を言いたそうに息を吸った母は、しかしそれを
第8話 『生理用品はちゃんと汚物入れに』 トイレの個室の鍵を閉めると、ドアの裏側に貼られている紙が目に入った。 普段から何度も見ているはずの文字が、弱っている心にはまるで責められているように感じられる。こらえていた涙が柚果の目にじわりと浮かんだ。 鼻をすする音が、存外大きく響く。息を止めて外の様子に耳を傾けると、遠くから誰かの笑い声が聞こえた。 トイレの床の冷たさが、上履きを通して身体に沁み込んでくる気がする。瞬きをくり返し、浮かんでいた涙を呑み込む。
第9話 改札を出て、正面の壁にかかっていた街の案内図を見る。昨夜のうちにスマホで調べておいた生涯学習会館を地図の中に見つけ、案内に従って南口へ向かった。 誰の力も借りず、一人だけで電車に乗ることができた。柚果の住む地域は駅まで遠く、バスの本数も少ない。両親とも車を所有しており、どこに行くにもたいていは車を使う。 保護者なしで電車に乗ったのさえ、去年が初めてだった。栞と優愛と共にショッピングモールのある大きな駅に行った。その時も感じたが、少しだけ大人になった気
第10話 下駄箱の前で上履きに足を入れたところで予鈴が鳴った。 重い脚を引きずるようにして教室へ向かう柚果を、遅刻ぎりぎりでやってきた生徒が次々と柚果を追い抜いていく。 今朝は食欲が湧かなかった。柚果の調子が悪いと気づいた母がピリピリした空気を出すので、余計に気が滅入った。 母が目を吊り上げて怒り出しても、本当は学校を休みたかった。いったいどんな顔で伊佐治たちと顔を合わせたらいいのか。 玄関でのろのろと靴を履いていると、隅に置かれている弟のスニーカー
第11話 玄関のベルが鳴り、柚果は本から顔を上げた。 「すみません、わざわざご足労いただいて」 「いえ、こちらこそ申し訳ありません。お忙しいお時間にお邪魔して」 ドアの向こうに耳をそばだてていると、玄関から母と誰かの声が響いてくる。 足音と声は廊下を進んでいった。リビングのドアが閉まる音がして、静かになる。部屋のドアを細く開けて階下の様子を窺うと、パタパタと足音が近づいてきた。慌ててドアを閉じ、飛ぶように勉強机に戻る。 しかし足音は柚果の部屋ではなく、
第12話 チャイムの音が鳴り、静かだった教室がざわめき始める。柚果は本から顔を上げ、背筋を伸ばした。首がぽきんと音を立てる。 ホームルーム前の朝読書は十分間と決まっている。読書が好きではない人にとっては長く感じられるのかもしれないが、柚果にとっては夢中になったところで中断される、中途半端な長さだった。 読みかけのページに指を挟んだまま、本を裏返しにした。下の方にバーコードが貼ってある。学校の図書室にあるものとも、図書館のものとも違う色だった。小さく『生涯学習
第13話 雨足が強くなった。風の吹いてくる方向へ傘を向けても、膝から下がびしょびしょになってしまう。 サブバックの持ち手が肘の内側に食い込んで痛かった。けれども、傘を持っているので反対の手に持ち替えることができない。柚果は家に向かって足を速めた。 長いようで、短い一日だった。担任から志穂の死の知らせを受けた朝から、どのように時間を過ごしたのか、あまりよく覚えていない。 『昨夜、隣のクラスの高田志穂さんが亡くなりました』 担任の言葉に、クラス内は騒然とな
第14話 「では、この問題はどうでしょう」 言いながら、数学の教師が手元の機械を操作した。黒板の前に垂れ下がったスクリーンで、映像が新しく切り替わる。 「さっきの問題はみんなわかったよね。考え方は一緒だよ」 志穂の死から二週間が経っていた。あの後、保護者を集めた説明会があり、その次の日には生徒たちの全校集会が行われた。しかしそこでは校長から命の大切さについての話があっただけで、志穂が亡くなった詳しい経緯は語られなかった。 それ以降は授業がつぶされることも