孤独死の不安
自分の心はもう安定しているから、根拠のない不安ではないのだけど。
たまに「孤独死しそう」と言っていたのですが、うまく言い表せていないなと思ったので、私がふと感じる不安を言語化することにした。
アフターコロナの世界を考えると、なんだか、たまに背筋がぞっとするのだ。
アフターコロナの世界では、人と人が会うということが当然ではなくなるのだろう。
既に誰かと暮らすことが当然となっている人はいい。誰かと会うことが習慣となっている人はいい。そういう人は既存の関係を大事にできるからいいのだろう。
私は?
コミュニケーションはできる。
まるで一同に介しているかのように(現実問題そこまではできないけど)盛り上がって、でも、私はこの部屋で一人だ。そのギャップを感じるとき、なんだかぞっとする。
これが次の世界では当然となるのだろうか?
それは、VRゴーグルを付けて楽しんでいる人を外から見ているような感覚と同じようなものだと思う。ディストピアに足を踏み入れているように感じる。
朝起きてパソコンを付けて、勉強をして、おしゃべりをして、パソコンを閉じて寝る。全てが箱の中で完結した世界。ただし、私は物理的には一人なのだ。
もし、私が突然発作のようなもので倒れたとしても、気づく人は誰もいない。私が社会とつながるものは目に見えないインターネットの線だけだからだ。
不安になりすぎて、「私が一日に一度もTwitterに現れなかったら何か起こったと思ってください」と固定ツイートにしようかと思ったくらいだ。
こんなことを思うのは、今実際、私の生活がこんな感じだからかもしれない。
これは(主観的には)あまり健全な精神状態とは言えないので、ちゃんと外に出るべきなんだろうなと思うのだけど、買い物以外に外に出る理由も欲求もない……。
今一番したいことがプログラミングで、しなくてはならないこともプログラミングだ。さらに悪いことに、他のことに対してあまり興味がなくなっているので、本当に朝起きてから夜寝るまでプログラミングをしている。
だから、したいことをしているはずなのに、心のどこかで「この生活が常態化するのはだめだ」と言っている。
その、自分の中の感情と理屈のずれに私は参っている。
きっと、こんなのは病んだ私の妄想で、アフターコロナはディストピアではないはずだ。
面倒なことは全てインターネットで完結して、生まれた余剰時間で本当に会いたい人と過ごす時間が増えるような、そんな都合のいい世界になるはずだ。
でも、今はまだそれは無理なようだから。
早く、会いたい人に会える世の中になりますように。
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