私の決意

小学三年生のとき。
私はバプテスマと言われるいわゆる洗礼を受けた。
プールの中に沈められ、上げられるというただそれだけの行為。
これをするには、かなりのハードルがある。
なんという本だったか、記憶は定かではないがその本を長老と言われる人たちと質疑応答で学んでいく。

その為の予習が不可欠で、聖書に書かれている聖句と言われるものに対して自分なりの答えをまとめ、長老に聞かれたことに関して答えていくのだ。

これがまぁ多い。
量が半端ない。

私がなぜバプテスマを受けようと思ったか。
母に褒められたいから。
ただそれだけの事。
そして最年少でバプテスマを受けたかった。
なぜか。
母に自慢の娘だと思われたいから。
ただそれだけの事。

神への信仰心だとかそんな事は、二の次。
でも当時はそれがなんの感情だったのか、わからなかった。
今になってつくづく私は母に褒められたかったんだなぁとわかる。

普通バプテスマを受けるのは大人で、若くても中学生だった。
私は住んでいた県の中で一番若くで、バプテスマを受けた。
まだ母は持っているのだろうか。
私がバプテスマを受け、プールから上がってきた濡れた娘の姿を撮った写真。

でもそんなものは、通過点に過ぎなかった。
次は補助開拓者(月に60時間を奉仕に捧げる人)、行く行くは世紀開拓者(月に90時間を奉仕に捧げる人)

研究生(聖書を学ぶ人)を何人持っているか。
その研究生が何人バプテスマを受けるか。

次から次に来るハードルと、母への間違った愛情。
ハードルをこなした時の母の嬉しそうな顔。
誇らしげな顔。

なにをして、何を言って褒められたかは覚えてない。
覚えているのは母の嬉しそうな顔。

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