善について。

私のやっていた宗教は色んな宗教がある中でもかなりの洗脳力を持っている宗教だと思っている。他の宗教に詳しい訳では無いが、なぜそう思うのかというと【善】だからだ。
教えていること、やること、全てが【善】で出来ている。
奉仕活動、集会それらは全て自分のためではない。非信者(教団の中では世の人と呼ばれる)たちを救うためにやっている事だからだ。
自分たちが楽になりたい、幸せになりたいからするのではない。
これをするから幸せになれる、でもない。
より多くの人たちを救いたい。
という【善】の気持ちから来ている。
人は誰かのために何かをすることで少なからず優越感を持つ生き物だと思う。落ちたハンカチを拾う、席を譲る、ひねくれている私は皆それは純粋な【善】の気持ちではないと常々思っている。
なぜなら誰もいない場所で誰かを助ける人がいるだろうか。
周りからの評価、周りの目それを全く気にせず人のために尽くす人は極少数ではないだろうか。ただその宗教の人達はある意味違っている。
それは神からの祝福を受けるためにやっている事だから。
だから【善】をおこなう。
より多くの人たちを助けたい、この世の中から救い出す。その目的のために来る日も来る日も奉仕活動を続ける。もちろんそれには給料なんて発生しない。
仕事が忙しく奉仕活動をしない人達に対しては信仰心が薄いと言うレッテルを張る。
この世の中で物質を求めていると。貧しいことを清いとするのはそういう事だ。
この世の中での価値を追い求めてはいけないと教えられている。
そのため熱心な信者はみな貧乏だった。
中には世の人のご主人を持ち、奥さんだけが信者をしている家庭もあったが、豪華なマンションに住むその信者は(なぜ物質主義のご主人さんを信仰に招き入れないのか)と、言われていた。確かにその信者はいい車に乗っていたし、身なりも綺麗だった。
それだと物質主義になるので、その信者はあまり信仰心がないと見なされているなと子供心に思っていた。
そして羨ましかった。古い汚い賃貸の一軒家に住んでいた私から見たら、その大きなマンションはお城だった。
出窓のカーテンが羨ましく、綺麗な車もピカピカ光って見えた。その頃から少しづつ何かが私の中で目覚めていくのがわかった。
なにかがおかしい。
こんな生活は嫌だ。
周りが羨ましい。
そんな気持ちが少しづつ湧いてくるようになったのは小学校に入る少し前から。
全てが変わり始めたのは小学校に入ってから。その頃の話から書いていこうと思う。
ここまではプロローグ。
ここから本編。これはあたしの自叙伝だ。
宗教によって人生を壊された。
家族を狂わされた。
そして今も苦しんでいる。そんな私の気持ちを少しづつ吐き出していこう。

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