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つながる力を阻害するもの

『子どもの社会力』(門脇厚司、1999年、岩波書店)という本がある。

「社会力」とは、人と人がつながり、社会を築いていく力であるという。具体的には、チームで何かを達成したり、課題を解決したりする力のことのようだ。あるいは、社会の諸課題に取り組み、解決する力がイメージされる。

その「社会力」の習得、あるいは向上を阻害する要因が様々にあるという。

少子化→家族、近隣、学校園等で接する人間の数が減少し、相互作用の機会が失われる。
家族関係、近隣関係の変化→教育家族化、地域社会の希薄化
家族や地域における伝統行事・年中行事の衰退→協働作業機会の喪失
偏差値至上主義→学齢期における仲間関係を分断。
学校教育の系統主義化→人とつながる体験的活動の喪失
消費社会化→金銭を介さない人間関係を経験しにくい。
都市化→人間味(?)を感じる環境の消滅、遊びを許容しない空間。
家電製品の充実→お手伝いを介した親子関係の消滅、子どもの自己有用感を感じる機会喪失。
ネット→他人と接触しなくて済む道具。1人時間の充実と満足。
無人販売(自販機から無人コンビニへ)やECの拡大→人と会う必要がない

本書に書かれていることと、敷衍して想像したことを混ぜて列挙してみた。まあ、そうかなと思うところと、そうでもないよと思うところが混在しているかもしれないけれども、ネガティブな要素を探せば「枚挙に暇が無い」とはまさにこのこと。

私たちの「他者とつながる力」は衰退し、「社会力」は失われる一方だ。

・・・・という結論にたどり着くわけにもいかない。

どうしたらいいか、ということを考える前に、若者たちは、そういったことについて、どう考えているのかということを確認しておく必要もあるだろう。

ゼミの学生に、あれこれ話してもらって、確認できたことがあった。

それは、「人とのつながりは大事だし、大事にしている。ネットも、上手に使えば、優しさや共感からつながり合うことができる。」ということで、他人に関心を持たない冷血人間のようなイメージとはかけ離れた、繊細で思いやりあふれた優しい若者像が表れてくる。

ならば、「人とつながる力」「社会力」も十分に持ち合わせているのかというと、そうでもないようだ。

「就活とか考えると、初対面の人と上手にコミュニケーションできるようになりたいけど、緊張するし、壁を作ってしまう。」「警戒感が強くて、見ず知らずの他人とは仲良くなれないし、仲良くならなくてもいいと思っている」

確かに、小さくて、居心地の良い人間関係が構築できると、自身が所属するグループをとても大事にして過ごしている印象がある。

他者や自身の認識の仕方も、どこのグループに属しているのか(あるいはどこにも属していないのか)ということにとても敏感で、グループがシャッフルされることはあまりない。固定化された小さな人間関係の中で安住して出てこない、という表現が適切だろうか。

こうした人間関係の築き方、あるいはマネジメントの作法を、いつ、どこで、どのように身に付けてきたのか。思い当たる節がある。

それは学校だ。

同年齢の固定化された人間集団が、年間を通じて、特定の空間(教室)に押し込められる。これは、いじめの原因として指摘されることもあるが、多くの若者たちは、この教室空間で、うまいこと過ごす作法を意識的、無意識的に身に付けて、その行動原理をたたき込んできたはずだ

子どもたちは、教室の中で、さらに細分化されたグループを「自由に」形成するのだけれど、重要なことは、一度形成されたグループ内でどう過ごすかではなく、一度形成されたグループ間の秩序を乱してはならないということだ。

別のグループの誰かにアクセスして、別のグループの誰かと仲良くなれば、教室内の秩序の再編につながってしまう。見た目、性格、趣味、部活、学力、家庭環境など、様々な情報をふまえつつも、何となくつながって、何となくいつも一緒にいるだけのグループだったはずなのに、別のグループに所属する同じクラスのメンバーとは、没交渉でなければならない。そんな振る舞い方をしなければ、長期にわたって固定化された狭い教室内の同質的集団の中で、自身の安らぎを得る事は難しい、ということなのだろう。(海外のことはよく知りません。。。)

日本の若者たちが、そうした振る舞いを身に付け、そうした行動原理に従って、大学生活、あるいはその後の社会生活を送っていると想像することも容易だ。

「人とつながることは大事だと思っているし、既存の人間関係も大事にしているし、できれば他人に親切に優しくしたいと思っているけど、新しい人間関係を積極的に作れないし、特に初対面の人には無意識に壁を作って警戒してしまう」問題の背景は、ざっと以上のようなものだ。

なるべく初対面の人と接する機会を減らして、既存の人間関係の中だけで、安定して過ごさなければ、長い学校生活を安心して過ごせない。少なくとも、そんな状況で小中高の12年間を過ごしてきたら、「どんどん人とつながって、協働して問題を解決する力」を身に付けることが難しい、というのも無理もない話だ。

もし、「自分はそんなことがない。初対面の人とでもすぐに仲良くなれる」という人がいたら、それは幸運にも、「初対面の人と、どんどん仲良くなって、どんどん新しい刺激を獲得して、どんどん成長してきたという成功体験を持っている人」なのかもしれない。そういう人は、これからも、初対面の人と壁を作ることなく、大いに社会力を発揮して活躍して欲しいと思う。

さて。

ここまで来たら、私たちがやるべきことが、ある程度見えてくる。

小中高大などの学校現場では、クラスの流動性を高めよう。

クラスという集団の単位は便利だけれど、その内部が固定化しないようにする。席替えを頻繁に行うのもよい。グループ活動が固定化しないよう、子どもたちを動かし続ける。

(※安定的、固定的な人間関係が必要な、特別な支援を要する子どもたちには、当然ながら十分な配慮が求められるので、その点はご留意下さい。)

クラス内で完結しない、人間関係が多様に広がる取り組みを充実させよう。学習活動だけでなく、部活や、遊びの活動でも、人間関係の流動性を高める工夫があったらよい。クラス外、異学年、地域など、様々な出会いと交流をマネジメントする必要がある。

固定化を禁止するわけではなく、固定化する部分があってもよいと思う。でも、開放的に人間関係が流動し、多様な人と交流する機会を保障したい。

小さな子どもたちは、「あーそーぼー」「いーいーよ」というやりとりが成立すれば、誰とでも一緒に遊ぶことができる。別に何も言わなくたって、一緒に遊ぶことができる。

ところが中高生ぐらいになると、「あーそーぼー」を言わなくても済む環境を手に入れて、そこに安住してしまう。それどころか、意図的に、新たな関わりや働きかけを控えるようになってしまう。これは、成長と言えるかもしれないが、退化とも言えるかもしれない。

もし、「人とつながる力」を身に付けて、「社会力」を発揮することが大事なのだとしたら、ちょっと疲れるかもしれないけれど、いろいろな人と新たに仲良くなる経験を、たくさんたくさんして欲しい。

子どもたちが、長期間、狭い教室に閉じ込められた結果として、「新しい出会いを避ける行動原理」を身に付けてしまわないように、これからも努めていきたいと思う。


※ちなみに、この話を書いていたら、会社社会における異動や転勤を推奨しているような主張にも読めてしまう気がしてきたので、そのあたりは別の機会に考えたい。子ども時代にすべきことと、大人の世界のあり方は、ちょっと違う考え方をした方が良いのではないかという気もしている。


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