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徘徊とドーナツ

4歳の次女を連れて近所のスーパーへ買い物行った帰り道、ハイキング帰りな感じの男性からすれ違いざまに声をかけられた。「向こうにいる、パジャマ姿の高齢男性が、ちょっと心配な感じなので気をつけて見てあげてほしい」と。

心配なら自分で見てあげてよ。。と思いつつ、件の高齢男性が縁石に座り込んだりしているので、とりあえず車道から離れたところに誘導して座ってもらう。明らかに認知がおぼつかない感じ。

胸ポケットに携帯番号が書かれたプレートが入っていたので電話したら、年配の女性の声。「すぐ来れますか?」と聞いたら、「行くけど、背中が痛くてすぐには行けない」となぜか半ギレな感じ。近所っぽいので、とりあえず場所を伝えて、迎えに来てもらえるまで一緒に待ってますよ、とお伝えする。

不安感が出ないように男性に時々話しかけつつ、道端の陽だまりで10分ほど待ったら、電話先の奥様と思しき方が杖をついて到着。なんとか連れて帰れそうだったので、ご挨拶をして現場を離れる。

老老介護を初めて垣間見た4歳児に「ちゃんと待ってくれて偉かったね!」と労いの言葉をかけつつ帰宅。

その後、奥様から「お礼がしたい」と何度か電話を頂戴する。はじめは固辞していたのだけれど、たまたま在宅しているタイミングだったので「お待ちしています」とお伝えした。

実はその数日前、新聞であるコラムを見かけた。それは「高齢になって、お世話になった人に感謝の気持ちを伝えられないのが心残りだ」という内容だった。「どうにもこうにも、感謝の気持ちを伝えないと気が済まない」という心情を想像すると、年配の方からお礼の気持ちを受け取るのも大事なことかと思い直した。

恐縮しながら頂いたドーナツを頬張りながら、学生時代を思い出した。震災後に建てられた仮設住宅に、ボランティアと称して毎週通っていた頃の話だ。

我々地元の大学生以外にも、全国から様々なボランティアがやってきた。ある時、仮設に住むお年寄りがボソッと「ずっとありがとうと言い続けるのはしんどいな。たまにはありがとうって言われたいもんや」と話していた。

与える者と、与えられる者。支援者と被支援者。もらってばかりになるのはバランスが悪い。誰かに「ありがとう」と言う役割が固定化していくのは、ちょっとしんどい。

人付き合いには、いろいろと難しいところがあるけれど、言葉や形にしないと伝えられない感謝の気持ちがあると感じる機会も増えてきた。儀礼的形式的な贈答は苦手だけれど、気持ちや人間関係のバランスを整える役割があるのかな、と実感することもある。

贈与論、ポトラッチ。あるいは社会関係資本、自助共助、相互扶助、互酬的相互作用。難しい言葉はたくさんあるけれど、通りすがりの人でも、近しい家族や友人でも、バランスを取りながら生きていくことは大事だなと思うし、それが生きていく知恵でもあるし、誰かとつながっている豊かさの証拠なのだと思える。

学生の頃には、そんなこと考えもしなかったなぁ笑



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