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#10 昭和のリヤカー屋台・おでん屋さんの懐かしい「ちくわぶ」

「ねぇ、昭和の物売りに、おでん屋さんってあったよねぇ」
共感得ようと、年上の友に話を向けた。
「そんなのなかったわ。あなた、東京・下町生まれだからよ。そもそも「おでん」って、関東の食べ物よ。関西では「関東煮」っていうんだから」
と、素っ気ない。

どうやら、島根で生まれ育った彼女の記憶に、リヤカー屋台の「おでん屋さん」は存在しなかったようだ。

昭和の時代、いろんな物売りがあった。食べ物だけでも、「石焼芋」「豆腐」「玄米パン」に「夜鳴きそば」…。
(その思い出話は、「#9 昭和の物売り 微かな記憶|いいいろきみこ@エッセイスト (note.com) に記した)

ほかにも、千葉の農家のおばさんが、頭よりも高く積み上げた竹籠を背負いながら、家々をまわって売り歩く「野菜行商」というのもあった。(このことについては、いつか「note」に書いてみたい)
そんななかで私が一番、楽しみにしていたのが「おでん屋さん」だったのだ。

それは午後3時をまわった頃、そろそろお腹が空いてくる時刻、まるで「おやつだよ~」と呼びかけるかのように、チリンチリン、チリンチリンとリズミカルにベルを鳴らして、料理人の白衣に白い帽子をかぶったおじさんが、屋台を引いてやって来る。

おもてで遊んでいた妹が、
「お姉ちゃん、来たよ、来たよ」
と駆け込むと、私は10円玉を2枚握って外に飛び出し、おじさんを待ち受ける。
うちの前でおじさんが屋台を止めると、近所の子たちも集まって屋台を囲み、四角い鍋の木の蓋がゆっくり開くのを待つ。
「ふわ~」と湯気が立つ中に、私の好きな具があることを確かめる。小さかった妹は、精一杯のつま先立ちになって、一緒に中を覗き込む。
おじさんが
「どれにするかね?」
と聞くと
「ちくわぶと、はんぺん」
私が言うのを、ほんとはもう、おじさんは知っていて、それを串に刺しながら
「はいよ。20円ね」
と手渡してくれる。そんなだった。

父も母も自宅で働いていた我が家は、母が多忙で夕飯を作る時間がなくなると、時々、このおでんが食卓にのった。そんな時は、好物のちくわぶや、はんぺんだけでなく、昆布、こんにゃく、すじ、つみれ、しらたき、焼きちくわ、卵、大根、じゃがいも、揚げボールと、家族の好きな具がたくさん鍋に入った。
我が家のおでんは、母の作ったものではなく、おじさんの味だった。

決まった時刻にやって来たリヤカー屋台のおでん屋さんだったけど、雨が降ると来ない。真夏の暑い日も来ない。そしていつしか、おじさんはずっと来なくなっていった。
口数の少ない、でも話すと言葉の端に自分と同じ郷里の音を感じると、母は懐かしがっていた。けれどもう、どんなに待ってもおじさんは来なくなった。
それ以来、わが家の食卓におでんが乗った記憶がない。私ももう、おでんが好物ではなくなっていた。

そんなことも、とうに忘れて50年。この地で主婦になり、あのちょっと色の濃い、醤油味のおでんを作ってみようと思い立った。
誰からも、作り方を伝授されなかったあの「おでん」は、関東風に北のエッセンスも入っていたはずだ。

記憶にある具を買いに行く。しかし、ない。私の好きな「ちくわぶ」だけがない。軒並みスーパーを探しまわるが、売ってない。
「そうだ、コンビニのおでん鍋になら、きっとあるはず…」
しかし、ない。「セブンイレブン」にも「ローソン」にも、「ファミマ」にもない。「ちくわ」はあっても「ちくわぶ」は入ってない。
「えっ、なんで? コンビニは、全国共通かと思っていたのに…」
その後、ウィルスが蔓延し、レジ前のおでん鍋そのものが消えてしまった。

そうして思い出した。
「あなた、東京生まれだからよ」という友の言葉を。
「ならば!」と、各地のおでんを調べてみる。関西の「関東煮」、「静岡おでん」「博多おでん」などなど…、そのどこにも「ちくわぶ」の存在はない。どうやら、ちくわぶそのものを知らないようなのだ。
「そ、そんなぁ。ちくわぶの入っていないおでんなんて、私にとっての、おでんじゃない」
ちくわぶを見つけるまで、しばし、わが家の食卓におでんは乗らない。。

リヤカー屋台のおでん屋さん、おじさんのあの味は、まだ遠くに行ってしまったままなのね。あぁ、チリンチリンのベルの音が、こんなにも懐かしい、

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