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#9 昭和の物売り 微かな記憶

「キンギョーエ~、キンギョ~」
「note」に投稿されている、もりお ゆうさんの【僕の昭和スケッチ】を拝読していたら、こんな声が脳裏にこだました。「金魚売り」の呼びかけ声だ。

 当時、私は小学1年生だったろうか、夏になると「キンギョ~エ~、キンギョ~」という声が、おもてから聞こえてきた。
「わぁっ!」
 急いで2階の窓から見下ろすと、桶を括りつけた天秤棒を肩に担いだおじさんが、そろ~り そろ~り、歩く姿があった。
 誰かが声をかけると、ゆっくり腰を屈めて桶を地面につけてから、そぉ~っと天秤棒を肩から下ろす。水の入った桶から金魚が飛び出さないように、慎重に下ろすのだ。
「あのおじさん、どこから来て、どこへ行くのだろう」
不思議に思いながら「キンギョ~エ~、キンギョ~」の声が消えるまで、おじさんの姿を目で追いかけていた。

「風鈴売り」というのもあった。
 記憶が曖昧なのだけど、確か、リヤカーにぶどう棚をしつらえて、そこにたくさんの風鈴を吊るしていたんじゃぁなかったかな。
 はっきり覚えているのは、暑い日差しを跳ね返しながらキラキラ光るあの透明な音たちが、チリン、チリリ~ンと重なり合って清々しかったってこと。
 呼びかけ声は聞こえなかったけど、遠くから微かにチリン、チリンと風鈴たちの音が聞こえてくると、
「来た~!」
 2階の窓に駆け寄って、身を乗り出した。遠くの音たちがだんだん大きくなってきて、チリン、チリン、チリチリチリリ~ンとそれぞれの違う音を競わせ合いながら前の道をゆっくり移動していくと、もう、胸が躍ってとまらない。
 おじさんの足は止まることなく、ゆっくり過ぎて、だんだん音が小さくなる。
「あの角を曲がると音が消えちゃう…」
 わずか数分のときめきと、切なさを感じた風鈴売りだった。

「玄米パ~ンのほ~やほや」というのもあった。
自転車の荷台に四角い箱を括り付けて前の道を過ぎていく。
「玄米パンってどんなパンなのだろう。 食べてみたい」
とそわそわしても、声を掛ける勇気がない。
「あぁ、行っちゃうよぉ」
 その気持ちが通じたのか、ちょっと先の4つの路地が重なったところで、おじさんは自転車を止めて、
「玄米パ~ンのほ~や、ほや~」
と四方八方に数回、大きな声で、もう1度チャンスをくれる。それでも誰も呼び止めないと、また次の場所へと動き出す。
 勇気を出せなかった私の心に、おじさんの寂しさが広がった。

 夕暮れ時になると、リヤカーを引いて豆腐屋さんがやってきた。「ぱーぷ~ ぱーふ~」と吹くラッパが、「とーふ~、とーふ~」と聞こえるから不思議だった。
 すると、
「お豆腐屋さ~ん」
と割烹着姿のおばさんが、どこからか小走りに出てくる。その声につられて、隣りの家からも向かいからも、小さな器を持っておばさんたちが出てくる。
「じゃあ、うちも今日は冷や奴にしようかね」
と言いながら、サンダルをつっかけて母も出ていく。その母を私は追いかける。
 おじさんが
「絹ですか? 木綿ですか?」
って聞くと、
「絹を1つね」
と母が答える。
 幼い私は、まだ絹と木綿の違いもわからぬまま、水の中に泳ぐ豆腐を、まるで金魚すくいのように、手でそおっとすくう様子を見るのが楽しかった。
 豆腐屋さんは、主婦たちの一番人気だったね。

 昭和の時代、いろんな物売りがあった。
 寒くなってくると、「い~しや~きいも~、おいも、おいも、おいも~」。休日には、「さおや~、さおたけ~」。夜が更けると「チャルメラおじさん」。ラッパを吹いて屋台を引き歩くラーメン屋さんのこと。「夜鳴きそば」と言っていた。
 当時は、どれもリヤカーだったけど、時が経ち、周辺の道が広くなると軽自動車になっていった。
 その代表格が「毎度おなじみ、チリ紙交換でございます。ご家庭内でご不要になった古新聞、古雑誌、ございましたら……」だ。

 でもね、私たち子供の人気ナンバーワンは、何といっても、おでん屋さんだったの。
「あらっ、 そんなの、うちの方にはなかったわよ」
共感得ようと、少し年上の友人に話を向けたら、つれない返事。どうやら地域性があるようだ。今度は、おでんやさんの話でもしようかな。

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