影の囁き
静寂が支配する夜。古びた洋館の二階の一室で、アリスは目を覚ました。彼女の周りには、まだ開梱されていない引っ越しの箱が積み重なっていた。窓の外では、満月が不気味な光を放っている。
アリスは37歳。離婚したばかりで、新しい人生の一歩を踏み出すために、この田舎町にやってきた。そして、格安で手に入れたこの古い洋館に、わずか3日前に引っ越してきたのだ。
彼女は起き上がり、時計を見た。午前3時15分。なぜ突然目が覚めたのだろう。そして、その瞬間、彼女は気づいた。家の中のどこかで、かすかな物音がしているのだ。
アリスは息を殺し、耳を澄ました。確かに、一階から何かが聞こえてくる。まるで誰かが歩いているような...そんな音だった。
「泥棒?」彼女は心の中でつぶやいた。しかし、そうであってほしいと思った。なぜなら、もしそうでなければ...
アリスは震える手で携帯電話を掴んだ。警察に通報すべきだろうか。しかし、もし気のせいだったら?この町に来たばかりの彼女が、すぐに厄介者として見られるのは避けたかった。
彼女は深呼吸をし、勇気を振り絞って部屋を出ることにした。階段を一歩一歩、慎重に降りていく。木の床がきしむ音が、今までになく大きく感じられた。
一階に降り立ったアリスは、居間に向かった。そこが音の出所のようだった。暗闇の中、彼女は壁をなぞるようにして進んでいく。そして、居間のドアの前で立ち止まった。
ドアはわずかに開いていた。中からは、かすかな光が漏れている。アリスは息を呑んだ。彼女は電気をつけていないはずだった。
震える手でドアを押し開けると、アリスの目に飛び込んできたのは、予想外の光景だった。
居間の真ん中に、一人の少女が立っていたのだ。
少女は10歳くらいだろうか。長い黒髪を背中に垂らし、白いワンピースを着ている。彼女は窓の方を向いていて、アリスに背を向けていた。
アリスは声を失った。この子は誰なのか。どうやってここに入ってきたのか。
「あの...」やっとの思いで、アリスは声を絞り出した。
少女はゆっくりとアリスの方を向いた。そして、アリスは悲鳴を上げそうになった。
少女の顔には、目がなかったのだ。
アリスは後ずさり、ドアに背中をぶつけた。少女は不気味な笑みを浮かべ、口を開いた。
「ようこそ、私たちの家へ」
その声は、少女のものとは思えないほど低く、掠れていた。
アリスは震える足で階段に向かって走り出した。背後から、少女の薄気味悪い笑い声が聞こえてくる。
必死に二階まで駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだアリスは、ドアをロックした。彼女は床に崩れ落ち、激しい動悸と冷や汗を感じながら、何が起こったのか理解しようとした。
しかし、考える間もなく、ドアの向こうから物音が聞こえてきた。誰かが、ゆっくりと近づいてくる足音。そして、ドアをノックする音。
「開けて」少女の声がした。「私たちと一緒に遊びましょう」
アリスは口を押さえ、叫び声を抑えた。これは悪夢に違いない。目を覚ませば、全て元通りになるはずだ。
彼女は目を強く閉じ、開いた。しかし、現実は変わらなかった。
ドアの向こうの声は、次第に複数になっていった。様々な年齢の、男女の声が重なり合う。
「開けて」「一緒に」「遊ぼう」「仲間に入れて」
アリスは携帯電話を掴み、震える指で警察の番号を押した。しかし、電話はつながらない。画面には「圏外」の文字が点滅していた。
部屋の温度が急激に下がり始めた。アリスの吐く息が、白い靄となって見えるほどだ。
そして、彼女は気がついた。声は、もはやドアの外からだけではなく、部屋の中からも聞こえ始めていたのだ。
振り返ると、部屋の隅々から、無数の影のような存在がにじみ出てくるのが見えた。それらは少しずつ人の形を取り始め、アリスに向かって這うように近づいてきた。
「誰か...助けて...」アリスは弱々しくつぶやいた。
影たちは彼女を取り囲み、その冷たい手を伸ばしてきた。アリスは身を縮め、目を閉じた。
そして、彼女の意識は闇に沈んでいった。
***
「アリスさん、アリスさん」
誰かが彼女の名前を呼んでいる。アリスはゆっくりと目を開けた。
見知らぬ天井。白い壁。消毒液の匂い。
「よかった、目を覚ましましたね」
ベッドの横に立っていたのは、中年の女性医師だった。
「ここは...?」アリスは、かすれた声で尋ねた。
「町立病院です。3日前にあなたを搬送してきました」
「3日前...?」
「ええ。引っ越し先の家で倒れているところを、不動産屋の方が発見したんです。かなり重度の脱水症状でした」
アリスは混乱した。あの恐ろしい体験は、すべて幻だったのだろうか。
「あの家には...」アリスは言葉を選びながら聞いた。「幽霊が出るとか、何か変な噂はありませんか?」
医師は首を傾げた。
「いいえ、特にそういった話は聞いたことがありません。なぜですか?」
「いえ...なんでもありません」
アリスはほっとした様子で目を閉じた。全ては脱水による幻覚だったのだ。そう思うことで、彼女は安心を得ようとした。
しかし、退院の日。
病室を出る直前、アリスは鏡の中の自分の姿に釘付けになった。
彼女の瞳の奥深くに、見知らぬ影がちらついて見えたのだ。
アリスは慌てて目をこすった。幻だ。きっと幻に違いない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は病院を後にした。
しかし、その日から、アリスの生活は少しずつ、しかし確実に変わり始めた。
夜中に目覚めると、部屋の隅に人影が見えることがある。鏡を見ると、自分の姿の後ろに別の顔が浮かび上がることがある。そして時々、誰もいないはずの場所から、かすかな囁き声が聞こえてくるのだ。
最初のうち、アリスはこれらを単なる幻覚か、ストレスによるものだと考えようとした。しかし、現象は次第に頻繁になり、より鮮明になっていった。
ある夜、アリスは再び悪夢にうなされて目を覚ました。汗びっしょりになった彼女が、水を飲むために台所に向かったとき、それは起こった。
冷蔵庫に映った自分の姿が、突然別の顔に変わったのだ。
それは、あの夜に見た少女の顔だった。
アリスは悲鳴を上げ、床に倒れ込んだ。
そのとき、家中から囁き声が聞こえ始めた。
「私たちの仲間になって」「一緒に」「永遠に」
アリスは耳を塞ぎ、目を閉じた。しかし、声は頭の中で鳴り響き続ける。
そして彼女は、ゆっくりと目を開けた。
部屋中が、無数の影で満ちていた。それらは人の形をしているが、顔はなく、ただ暗い靄のようだった。
影たちはアリスを取り囲み、その体に触れ始めた。不思議なことに、今回は恐怖を感じなかった。むしろ、ある種の安らぎを覚えた。
「仲間になるの?」誰かが尋ねた。
アリスはゆっくりと頷いた。
影たちは喜びの声を上げ、アリスを包み込んだ。彼女の体は少しずつ透明になり、やがて影と一体化していった。
最後の瞬間、アリスの頭に一つの考えが浮かんだ。
「これで...もう一人じゃない」
***
数日後、アリスの失踪が報告された。
警察は家宅捜索を行ったが、彼女の行方を示す手がかりは何も見つからなかった。
唯一奇妙だったのは、家のあちこちに張られていた無数の付箋。そこには同じ文章が、繰り返し書かれていた。
「私たちはここにいる」
捜査員たちは首を傾げた。「私たち」とは誰のことだろうか。アリスは誰かと一緒にいたのだろうか。
しかし、その疑問に答える者はいなかった。
家は、再び静寂に包まれた。
だが、夜になると、近所の人々は時々奇妙な物音を耳にすることがある。 まるで誰かが歩いているような音。そして、かすかな笑い声。
しかし、誰も確かめようとはしない。
なぜなら、真実を知ることが、時として最も恐ろしいことだからだ。
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