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村上春樹『一人称単数』

村上春樹『一人称単数』のなかの、
最後の一編「一人称単数」。

村上春樹を進んで読んでいる、ということに
自分自身の良き変化を感じる。
変化というよりも、脱皮。
正しく読み取らなくちゃ!からの脱出。

理由なんて、ない。
それでいい。


小学生の頃、説明文がニガテになり
中高生の頃は、物語文の方がニガテだと思っていた。
なにが説明されているのかを問われる説明文が嫌になって、
試験が増えるにつれて、より「正解」がわかりづらい物語文の方が
もっと難しく感じるようになった、ということ。
心の中では、文学に正解なんてないはず!と叫んでみたりしたけれど
結局、正解の見つかりやすい説明文の方がいいかな、
というところに落ち着いてやり過ごすというのが
わたしが身につけた処世術だった。

わたしの中で、遊びにカテゴライズされていたはずの読書が
いつの間にか、国語の教材でしかなくなってしまった。
長く引きずってしまったそんな期間を
やっと最近、脱したような気がする。
わかるでも、わからないでもなく、
製本されたその一冊の中に包まれている世界にそそられるままに
村上作品を読んでいるのだから。

「正解」でも「理解」でもなく
読みたくて読む読書のたのしさといったら。
若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』こそ、
教科書に載せておいてほしい。
そう思う本は、他にもたくさんある。
教科書から横道に逸れるための本棚を
いっそのこと、人生のまわり道をするための一部屋を
いつか作れたらおもしろそうだ。


今日のお昼は
ラーメンにしようか、パスタにしようか。
人生は選択の連続です。

こんなはなむけの言葉をもらって
小学校を卒業したことを思い出す。

正解なんて、ない。
それがいい。


村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)

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