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美味しいラーメン屋が近所にあれば、大体のところには住める

20代の頃、今とは違う仕事で全国転勤をしていた。

田舎から大都会まで、様々な街で働き、それに合わせて色んな街に住んだ。

会社から出る辞令に合わせて、会社がいくつかピックアップした中から物件を選び、会社の指示する日に、引っ越す。

自分の意志は全く介在しない引っ越しなのに、役所の手続きは自分でやらなきゃいけないし、免許証の住所を書き換えすぎて最新の住所はいつも裏面だったし、人間関係も毎回一から構築しないといけなかった。


大変なことが多かったけど、結婚してそんな働き方をやめて東京の郊外に家を買い、一所に留まるようになった今、

「あの当時、すんごいしんどかったけど、でも、楽しかったな」

なんて、最近は思えるようになってきて、そんな心の変化に自分でも驚いてしまう。


当時のことを振り返ると、仕事にまつわる思い出と同時に、その街で食べた美味しかったものの記憶もよみがえってくる。

その地で採れた野菜、肉、海産物、酒、そこにしかないB級グルメ。それらと一緒に、どんな街にも、私には美味しいラーメンの記憶がある。

ラーメン屋さんって夜遅くまで開いているところが多いので、シフト勤務で遅くまで働いていた頃、頻繁に行っていたのだ。


美味しい記憶は、それを食べた街の記憶に直結していると思う。当時撮った写真を見返すと、心から、そう思う。



転勤生活の始まりの街で、私は友達と永遠のお別れをした。


それはあまりにも突然で、あっけなくて、こたつ布団を新調したからうちで鍋を食べようと約束した、2日前の出来事だった。


ソイツは同期の中で一番仕事ができた。社内試験の成績も、私は合格ギリギリでソイツはトップだった。

私は落ちこぼれだったけど弱音だけは一丁前で、ソイツと飲みに行った帰りに、近所のラーメン屋さんでシメのラーメンをすすりながら、その日の失敗や後悔をうだうだと吐き出して、

「そらぁ、時間薬しかないわなぁ」

と、笑いながら相槌を打つソイツの言う「時間薬」とやらを信じて、なんとかそこに踏みとどまっていた。

だから、ソイツがいなくなった時は泣いた。

泣くことしかできなかった。


意地でも仕事は休まなかった。それが、ソイツのいない日常で私ができる唯一のことだったからだ。

けれど、上司が変わっても、後輩が出来ても、ソイツの書いたメモや、ソイツの作った資料、置いてきぼりにされてしまったソイツの痕跡を仕事の中に見つけては、私はいちいち動揺して、ソイツと一緒に歩いた道は、次の街への転勤の辞令が出ても、結局最後まで一人では歩けなかった。

でも、時は流れる。
私は生きていて、私の時計は止まらない。


ソイツが言っていた「時間薬」とやらが、やっと効いてきたのだろう。
ソイツのいた飲み会の写真、たこ焼きパーティーの写真、そして一緒に食べたラーメンの写真なんかを見ると、もう涙は流れず、ただただ胸がギュとなるのだ。


切なくて、苦しくて、さみしくて、でも楽しかった、出会えてよかった。
こんな気持ちをなんて呼ぶのかは、30代になった今も分からない。

ソイツの顔も、声も、なんとなくぼんやりと煙に覆われたみたいに、今はもうはっきりとは思い出せないけれど、ソイツと一緒に明け方食べたラーメンの丼の熱さや湯気の香り、帰り道の空の色は、今でも鮮明に覚えている。

ラーメンを食べた帰りの朝焼け


縁もゆかりも無い地での転勤生活の中で、一度だけ、子どもの頃に親に連れられてよく遊んだ街に転勤になったことがある。

すぐに次の転勤辞令が出たため、結局そこでは、ある夏の間の半年しか暮らさなかったけれど、そこにいる半年の間、私はずっと孤独だった。

今振り返ってみると、そこは転勤生活の中でも一番の田舎だった。

隣町まで電車で1時間以上かかる上、そもそも一番近い電車の駅までも車が必要だった。
コンビニへ行くにも足がなかったので、ペーパードライバーだったのに、すぐに納車が可能な中古の軽自動車を慌てて買ったのだ。

毎日朝早くに職場の鍵を開け、そして毎日夜遅くに職場の鍵を閉めて、漆黒の闇の中、ハイビームで家まで帰る日々。

休日対応も多く、何かあったらすぐ車で駆けつけなければならなかったから、大好きな酒も簡単には飲めないし、当時ウィンドウショッピングが趣味だったけれど、車で1時間半のところに寂れたショッピングモールがポツンとあるだけだったのでそれもすぐやめて、その代わりにパチンコやスロットを打つようになった。

子どもの頃、親と一緒に訪れたこの街の市場には、採れたての野菜や新鮮な魚がたくさん売られていた。

その記憶があったので、引っ越してきたときに魚用のグリルを買ったけれど、市場の空いている時間なんかには、到底家に帰れない。

閉店間際のスーパーに飛び込んで、3割引シールの上から、さらに半額シールが貼られた売れ残りのパック寿司を買って帰る度、子どもの頃のキラキラした思い出がゆっくりと消えていくような気がした。

自炊をする時間も、そんな気力もなくなっていた私が売れ残りのパック寿司の他に食べていたのは、職場から自宅までの帰り道で唯一、日を跨ぐまで営業しているラーメン屋さんの豚骨醤油ラーメンと、サイドメニューの卵かけご飯だった。

街灯もほとんどない田舎の夜の闇の中、ポツンとその店だけ明かりがついていて、まるで光に吸い寄せられる真夏の虫のように暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ!」と威勢のいい声がいつも出迎えてくれた。いつしか、自分の家の駐車場の次に、この店の駐車場への駐車が上手になった。

どれだけ遅い時間に訪れても、いつも何組か客が入っているのも好きなところだった。

ほとんどがおじさんの一人客で、みんな黙ってラーメンをすすっているだけ。でも、パチンコ屋さんみたいにうるさくないしタバコ臭くもない。

美味しい匂いに包まれた同じ空間の中で誰かがご飯を食べている、という情景に、心底ほっとした気持ちになったのを覚えている。

毎晩パック寿司かラーメン・卵かけご飯の生活だったのに、引っ越してきてから転勤までのたった半年の間に、なんと5キロも痩せた。あのラーメン屋さんがなければ、私はもっとペラペラになっていたのかもしれない。


今でも、寂しい気持ちがする夜は、あのラーメン屋さんが恋しくなる。

週4くらい食べてたのに大人になってから一番痩せてた


夫と結婚する前、二人で色んなラーメン屋さんに足を運んだ。
結婚する前の話なので、ここでは仮にKさんと呼ぶとする。


Kさんは、他に選択肢があったとしてもラーメン屋さんに行きたがる生粋のラーメン好きで、しかもすごく辛いのや、すごく痺れるのや、とにかくパンチの効いた味が大好きだった。


そんな私たちが同棲する住まいの近所に、とてつもないにおいをダダ漏らしているラーメン屋さんがあった。風下に立っていると、10メートルくらい店から離れていても、風に乗ってそのにおいがやって来るのだ。

住み始めた当初こそ、あのKさんですら「さすがにこのにおいはヤバいね」なんて言っていたのに、その店に2、3回行くと、あら不思議。ヤバかったにおいが、だんだんといい匂いに感じるようになってきたのだ。


たまたま二人の休みが揃った昼下がり、残業で帰るのが遅くなった夜、そんな「ヤバい匂い」の魔法にかかったように、二人で暖簾をくぐった。

些細なことで喧嘩した日も、そのラーメン屋さんのカウンターでラーメンをすすりながら仲直りをしたし、ちょっとだけ給料が上がった日は、お祝いにビールと餃子で乾杯した。


「魔法のヤバい匂い」で充満した狭い店内はいつも活気に溢れていて、Kさんはいつも私のためにセルフサービスのお水を汲んでくれた。

私が普通のラーメンじゃなくてチャーシューメンを頼むと、いつも以上にニコニコ嬉しそうに笑って、ある時「いろんな美味しいものを、これからも二人でいっぱい食べたいね」と言ってくれた。


Kさんの前では、私は当たり前のように自然体でいられた。チャーシューメンだって頼むし、ラーメンにチャーハンもつける。お酒だって飲みたい時は飲む。Kさんもそう。

Kさんは掃除機をかけるのが苦手だけど、私は得意。私は料理が苦手だけど、Kさんは得意。

そうやってお互いの苦手を補って、そして二人が大好きな美味しいものに囲まれて生きていければ、きっとずっと幸せでいられるはずだと信じて、私はKさんの妻になった。


結婚前は「たまにはお洒落なパスタランチがしたいな〜」とも思っていたけれど、あの街から引っ越して、そんなに量が食べられなくなってきた今は、「魔法のヤバい匂い」で充満したあの店のラーメンを、Kさんともっといっぱい食べたかったなと懐かしく思っている。

大好きだったけど、今はもうこんなに食べれないと思う


コロナ禍は、いろんな人の生き方を変えた。


私も例には漏れず、一時期は天職だとまで感じた以前の仕事を辞めて、今では全然違う会社で、全然違う仕事をしている。職場に縛られずとも働けるということも、身をもって知った。

だから、別に東京にこだわる理由もないしどこでも住めるのだが、たとえどこにでも住めるとしても、今はどこかに行きたい・引っ越したいとは思わない。

これは「転勤疲れ」なんかではないし、東京が都会だから引っ越したくないというわけでもない。

そりゃあ田舎に住んでいた時は、ネット通販は届くのが遅いし、そもそも大手宅配業者の管轄外だったし、持病のためのジェネリック薬の取り扱いがどこにもなくて、高価な薬を買わなければいけなかったし、不便はたくさんあったけれど。

でも東京だって、街中で転んでも、優しく手を差し伸べてくれる人がなかなかいなかったり、心の不便を感じることはあるから。


結局どこに住んだって、そこで生きるのは、自分自身でしかないのだ。
どこで生きたって、自分で自分の人生を生きるしかないのだ。

転勤生活は、20代のうちの約8年のことだった。

その間、つらくて、悲しい出来事もたくさんあったけれど、この先の長い人生の中では、きっとこの何倍もの悲しみが待っているんだと思う。

そんな時、心温まる美味しいラーメン屋さんが近所にあれば、きっと私は大体のところで生きていけると思うのだ。

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