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「家庭的だね」なんて言われたくない

 家庭科の調理実習以外で包丁をろくに握ったことがなかった状態で上京してから6年。特にきっかけがあったわけではないが、いつのまにか料理が面倒なものから楽しいものに変化した。日常的に一度で何品も作ったり、何時間もかかるような手の込んだものを作ったりはしないが、かけられる手間と時間のバランスを見ながら工夫してやっている。

 何のメニューにしようか考え、無心になって作業をし、出来上がったものを胃袋に収めるまで、これら全ての工程が好きだ。部屋の中が温かい匂いで充満している中で、火にかけた鍋を見守りながら本を読んでいる時間なんて、これ以上ないくらいに穏やかな気持ちになれる。
 きっとこれは幼少期の影響もあるのかもしれない。母も同じように鍋の具合を確認しながら、よく文庫本を読んでいたのを覚えている。あの何とも表現し難いオレンジ色の空気感に満ちた台所をこの自宅のキッチンで再現しようとしているのだろう。実家で大事にされていたものと同じ鋳物のホーロー鍋を目の前に、「やはり母の影響を受けているのだな」と思ってしまう。

 ただ一つ困ったことがある。料理が好きと発言すると「家庭的だね」「付き合う人がうらやましい」など、充実した家庭を築くための〈良き妻という役割に向いてるかどうか〉という話に勝手にすり替えられることが多いのだ。そのときは静かに「いえ、料理が好きなだけなんです」と必ず答えるようにしている。うっかり口が裂けても「そんなことないですよ」と謙遜に受け取られる表現はしない。

 私が料理をするのは、あくまで私のために何かを作って、私が完成品を平らげたいからだ。もちろん人のために作ることはあるが、いくつか心の中で決めている条件がある。
 一つ目は必ず私が一緒に食べるという状況であるということ。人に料理を供して、ただ黙って見守るとか、後から食べるとかは論外だ。私は決められた役割として料理をしているのではなくて、ただ好きでやっている。だからこそ、一番美味しい瞬間を逃すようなことはしたくないのだ。
 二つ目は何かしらの反応や感想を述べてくれること。昔、母が「毎回美味しいとか、これが気に入ったとか言ってくれないと作り甲斐がないのよね」と漏らしてたことがあった。母の味が当たり前になっていた私からすれば「全部美味しいよって時々言っているけれど、毎回コメントする必要ってあるのかな」と不思議に思っていた。
 
 最近になってようやくその意味を理解することができた。パートナーはいつだってにこにこしながら料理を食べてくれる。鍋の中身と釜のご飯が空になるまでの間に何度も「美味しい」と繰り返し、時間が経過してからも「あれ美味しかったなー」と口にしてくれる。そして何より、他のことに気をそらさずに目の前に広がる私との食卓に向き合ってくれる。他人に食べてもらう機会は幾度となくあったが、こんなにも作ってて気持ちよさを感じたのは初めてであった。
 今なら母の言いたかったことが骨身に染みるほどわかる。たった一言を聞けるだけで、こちら側の気持ちは大きく変化するし、私自身の作ることへのモチベーションにも繋がる。それに気がついてからは、たとえ料理を仕事にしている人相手であっても、近しい間柄の人であっても素直にリアクションをするようになったし、私の中の決まりごとにも追加された。それは「作って当たり前」なんて思われた日には、その人のためにもう二度と包丁を握らないということだ。それはどんなに仲の良い友達でも、気を許したパートナーであっても例外なくだ。

 こんなことを書いているうちに、大事にしている鋳物のホーロー鍋が良い匂いを運んできてくれた。今日のメニューは巻かないロールキャベツ。キャベツを巻く作業が非常に面倒なので、そこは省かせてもらったが、この様子からしてきっとおいしく出来上がっているはずだ。今回はトマト味にしたが、次は白ワインとコンソメだけで仕上げても良いかもなんて考えては、自然とにやけてしまう。

 きっと明日も明後日も、その先も相変わらずこんな感じなんだろうな私は、と思いながらも、そんな私に日常についても素直に記録をためていこうと思う。


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