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Perfect Lady

 リビング兼仕事部屋でパソコンに向かっているとスマホが鳴った。何だよ、せっかく調子出てきたところだったのに。キーを叩く手を止めて画面を見る。そこには、心当たりがめちゃくちゃありすぎるほどの発信者名が表示されてた。あーあ、今夜もやっぱり、きたか。
「はい、もしもし。あ、わかりました。えぇ、今から向かいますんで。いつもすみません。はい、宜しくお願いします」
パソコンはそのままつけっぱなしにしたままにして、すっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、俺は上着をひっかけてから急いで家を出た。

 行きつけのバーのカウンターにはすっかり上機嫌の静香がとろけた表情で座っていた。閉店間際の店内には客は彼女以外誰一人としていなかった。
「あー、来たぁ。たぁくーん!」
静香は両手をいっぱいに広げて大きく手を振り、笑顔で俺を迎えてくれた。
「すいません、いつも」
「いえいえ、お気になさらずに」
恐縮する俺にマスターはいつもと変わらない柔和な笑顔を向けてくれた。
「さ、しーちゃん。帰ろっか」
「やーだ。まだ飲みたい!」
「でももう閉店の時間だから。ね」
「いいって、たぁくんも飲も。まだ大丈夫だよね、マスター」
マスター、ただただ苦笑い。
「ダメだよ。わがまま言わないの。明日も仕事なんだからさ。ね、帰ろ」
「えー、やだ」
静香は両頬に空気をいっぱい詰め込んで大きく膨らませながら、駄々っ子のように体を左右に振り始めた。
「じゃあさ、チューしてくれたら帰ってあげてもいいよ」
「いやいや。何言ってんの」
「あ、そ。じゃあ、だめ。帰んない。絶っ対、帰んない」
もう、勘弁してくれよ。マスターは絶対に聞こえているはずなのに聞こえなかったふりをしてこちらに背を向けている。俺は静香のほっぺたに軽くキスをした。
「えー、そんなのダメだよ。チューって言ったらこっちに決まってるでしょ」
静香は不満そうに言ってから目を閉じ、尖らせた唇に人差し指をあて二度、三度ちょんちょんと動かしてみせた。マスターは「どうぞ」と手ぶりをしてから店の奥へと姿を消した。しょうがねぇなぁ。
 誰もいないのはわかってはいるけど一応周りをきょろきょろ見回してから、俺は静香の唇に少し長めのキスをした。静香はより一層表情をとろけさせながら
「もう、たぁくんの唇、柔らくて気持ちいいっー!」
と抱きついてきて、今度は自分から唇を押しつけてきた。いやいや、誰も見てないとはいえ、なかなか恥ずかしいんですけど。

 やっとの思いで店から連れ出したはいいがすっかり酔いが回っていてなかなか歩くことができない。フラフラっと一、二歩踏み出したかと思えばすぐその場に座り込んでしまう。
「やっぱりもう歩けない」
「ほれ」
しゃがみ込んで背中を向けると静香は喜んですぐに飛び乗ってきた。
 静香をおんぶしながらゆっくりと歩いた。おぶわれて静香は元気を取り戻し、そして饒舌になった。「クソオヤジ」とか「あのハゲ」とか「ふざけんな!」とか。まぁ、素面の時の彼女の口からは滅多に発せられないような、そんなワードが次から次へと飛び出してくる。そのうち興奮し始め、両足をバタバタさせてたり俺の後頭部をグーでゴンゴンぶん殴ってきた。
「これこれ、そんなに暴れると痛いって。落っことしちゃうよ」
「うるさいなぁ。もう。たぁくんは〇〇(静香と全く相性の合わない相手らしい)の味方なの?」
「俺はいつでも静香の味方だよ」
「ホント? いまいち信じられないんですけど」
「ホントだよ。俺が嘘ついたことある?」
「いっぱいあるよ。昨日だって××のシュークリーム買っといてくれるって言ったのに買ってなかったじゃん。私、すっごく楽しみにしてたのにさ」
それは嘘じゃなくて、普通に忘れてただけなんだけど。
「はいはい、どうもすいません」
「あー、悪いと思ってなーい!」
痛て。また、グーで殴られた。

 静香は某金融機関に勤務しており会社では係長の職に就いている。プロジェクトチームのリーダーも任され、有能で部下にも慕われているようだ。努力家でいつも夜遅くまで本を読んだり資料とにらめっこしたり机に向かっていたり。そんな彼女の姿を身近で見ているからこそ、俺は素直に彼女を尊敬しているし、一番の理解者でありたいと思っている。
 しかし「男女機会均等」だとか「女性の管理職登用」だとか、最近では言葉自体はよく耳にはするものの、まだまだ会社組織が男中心の社会であることは否めず、理想と現実はかけ離れていると感じる場面によくぶち当たるようである。取引先の担当者に挨拶に行くと「あ、女性なの?」と嫌な顔をされたり、飲みの席に呼ばれてセクハラまがいのことを言われたり。笑顔でかわしたつもりでも大きなストレスを感じていることは想像に難くない。
 彼女にとっての「理不尽」を受けた時、そんな時に自分で歯止めが利かなくなり、ついつい無茶な飲み方をしてしまうのだ。決していつもいつもこんな感じで酔いつぶれて醜態をさらしているわけではない。今夜の会食の相手も、彼女曰く「男尊女卑の権化のような社長」らしかったのでもしかしたらこうなるんじゃないかということは何となく想像できていた。
 俺は君がどこで酔いつぶれてようが、どこにでも迎えに行くから。俺一人に迷惑かけるくらいのことなんて、何てことはないさ。あ、マスター、いつも巻き込んじゃって申し訳ないです。

 ひとしきり毒を吐き出しすっきりしたのか、静香はそのまま眠ってしまった。首元にあたる寝息が少しくすぐったかった。この間みたいに涎垂らして俺の首筋、びしゃびしゃにするのだけは勘弁してくれよ。

「着いたよ」
「うん」
「ほら、着替えないと」
「うん、わかってる」
 ベッドの端に座ったままぼーっとして動かない静香をパジャマに着替えさせてから、スーツをハンガーにかけた。
 布団の中に潜り込んだのを確認してから寝室を出ようとすると
「たぁくん」
振り返ると、静香が掛布団をめくって隣の開いたスペースをとんとんと叩いた。
「ここ」
「あ、俺、まだ仕事残ってるから」
「はやく」
・・・その言葉には、弱い。それは、全く否定できない。


「保、ちょっと。ねぇ、いつまで寝てんの。いい加減、起きて」
「え、あぁ。うん?」
 身体を思い切り揺り動かされて目を覚ますと、長い髪を一つに纏め、控えめだがキリっとしたメイクを施した、完璧に戦闘モードにスイッチを切り替え済みの静香が俺を見下ろすように立っていた。昨夜のどろどろにとろけまくった隙だらけの面影は、一ミリもない。
「何よ」
「いや、別に」
「今日、朝イチで会議だからもう出るね。保も今日締め切りじゃなかった?」
あ、そうだ。ヤバい。静香が寝入ったら起きだして原稿の続きを書こうと思っていたのにそのまま一緒に眠ってしまった。
「今日は早く帰ってこれそうだから、夜はどっかご飯食べに行こうよ。店、任せるから決めといてね」
「はいはい」
やらかした次の日にはだいたい外食に誘ってくるのがいつものパターンだ。昨夜の記憶は一切ないはずだがリビングのデスクの散らかり具合とか、何かちょっといつもと違う感覚とかで「あれ? これは私、やらかしちゃったな」というのをどうやら感じ取るらしい。まぁ、本人に確認したわけじゃないけど。というか、昨夜の記憶が一切ないこと自体がまずおかしくね?

「じゃあ、行くね」
「あれ、待って。『行ってきます』のチューは?」
「はぁ? バッカじゃないの。じゃあね」

 さ、俺もゴミ出ししてから、仕事しよっと。

ー終ー




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