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家族関係における精神的しがらみ

「母性」(湊かなえ 2015)を読んで、改めて「家族」とは、を考えさせられた。そこから家族というものの精神的しがらみについて考える。


『わたしのたった一つの望みは、母にやさしく触れてもらうことだった。』


ーあらすじー

「母性」には2人の語り手がいる。このひとつのストーリーの中に出てくる一家の母親と娘だ。その母親の母親に関する記述が多いため、語り手の母の方をルミ子と呼ばせてもらう。
最近の作品でないため、説明は不要かもしれないが、せっかくなので書いてみる。
ストーリーはふたつの時間軸が交互に進んでいく構成になっており、「母の手記」はルミ子が語り手であり、「母性について」は教師が語り手である。この教師がルミ子の娘である。「娘の回想」も同じくこの教師が語り手である。

そして「母の手記」での中の事件と、「母性について」の事件は内容は一致しているものの、時系列が違うため、別の事件であることがわかる。「母性について」で語られる事件はまさにルミ子の娘のことであるが、「母性について」では、その大人になったルミ子の娘が教師として、ある事件に対する想いを述べていることになる。自分と同じような境遇にいる高校生の自殺未遂事件を見て、自分の過去と照らし合わせて語っているのである。
 この本の面白いところは、語り手によって、物語における捉えられ方が全くもって違うということだ。母のルミ子は自分の育てかたに関して「愛能う限り、大切に育ててきた」と表し、優しく触れていたと語る一方、語り手が娘に変わると、ルミ子は娘を抑圧し、暴力を振るう母として表現される。

 私は、どちらの言い分にも嘘はないのだと思う。ルミ子はルミ子なりに大切に育てた。しかし、娘の態度が期待通りでないと、どうしてこんな子に育ったのかとため息を漏らし、衝動的な暴力を抑えきれなくなる。
そして娘は娘なりに、母を想い、助けになろうと頑張るが、上手くはいかず気持ちが届かない。どちらも、自分の気持ちを受け取ってほしいと、歩み寄るのだが、理解し合うということができなかったのである。
私のお気に入りの漫画である「ミステリと言う勿れ」(田村由美)に出てくる久能整という主人公の言葉でこういったものがある。

「真実は人の数だけあるんですよ でも事実はひとつです」(1巻)

 誰も嘘はついてないけれど、すれ違いや勘違いは起こる。人それぞれに感情があるから、その数だけ感じ方や捉え方がある。だからこそ、そのズレが人間関係をより複雑にさせる。私たちは改めて、「人それぞれ」という言葉を考え直し、個々人を尊重する必要があるということを思い出させてくれる言葉であると思う。
 この久能くんの言葉を考えれば、ルミ子にとって大事に育てたのは真実、娘が母を想いやっていたことも真実。しかし、ルミ子が娘を殴り、言動を抑制したのは事実、娘が不本意ではあるが、母の足でまといとなるような行動をとったことも事実である。どちらの本音も知っている読者は、ひどくもどかしい気持ちになるのである。想いあっているはずなのに、それが伝わらない。親子という愛のかたちがどれほど難しく、繊細で尊く、また恐ろしいものなのかをよく理解出来る作品である。
 ただの感想になるが、「母性」を読んで、最も胸が傷んだのは、父親が母の大事な思い出の家で、浮気をしていたことだった。ルミ子に感情移入すると、
よくも、と心から憎しみの感情が湧いてきた。自分の大好きな母親と暮らした幸せな思い出の家で、下劣な関係が育まれていたと思うだけで、全てが穢されたように感じた。まるで自分がルミ子かのように、母との綺麗な思い出も、なにもかも、空気さえもが、なまぬるい気分の悪いものに変わってしまうような苦い感情を味わった。
父はこの小説において、男とは浮気をするもの。男とは育児にあまり関与しないもの、そんなステレオタイプな存在だった。
ルミ子の実態は実際に、世の中の女性の一定数が感じていることなのではないかと思った。自分がもしも母親になった時は、ルミ子のようになってしまうかもしれない。いつまでも、母の大切な娘でいたいという願い、自分を無条件に愛してくれる人がいるという安心感から、親に依存してしまう。  自分の存在価値を見出したい時に、親に問うてしまうのが子どもというものである。
 私にとって母の言葉は、私の存在価値の主軸だった。母が私と同世代ぐらいの子を褒めると、私は、あの子が子供であればよかったと言われているような気分になった。例えそれが、女優など身近な存在でない人だとしても。私が極端に繊細で敏感だと思われても仕方ない。ただ、それだけ私にとって
誰よりも(また、姉よりも)、母から愛されるということ、認められることが重要だったのである。
 私はこの本を読んでさらに、自分に子どもを持つという大きな責任は取ることは難しいと、改めて感じた。そして、ルミ子も娘も、どちらにも感情移入できてしまうのは、私が母の『娘』であり、『女』(つまり。”母親”になる可能性がある性)であるからなのではないか。

ー絶対的存在の愛ー

  母性を読んで、改めて子ども自身の価値判断は親からの接せられ方に影響を大きく受けるということを感じた。ルミ子は母親にとても愛され、大事に育てられたように見える。仲が良く、お互いを深く想いあっていた。しかし、ルミ子はその絶対的な存在である母親に好かれることを第一優先にすることで、実際に自分が何をしたいのかを考える選択を自らに与えない。まるで取扱説明書でもあるかのように、こう言えば、こうすれば母に喜んでもらえるということを基準にしている。ルミ子は母からすでに愛されているけれども、現状以下にならないように、またはさらに自分を愛してくれるように、母専用の人形へと自分からなりにいっているのである。そして母なしで物事を考えたことがないため、ルミ子には意思がない。

  そして、家庭内の教育というものは家族のレールを確実に辿るように、ひとりひとりに組み込まれている。遺伝ではなく、自分が育てられた方法しか身をもって経験をしていないから、自分の子どもにも同じ教育を施す。
  そのため、ルミ子は母にしてもらったように娘に接しようとする。そして娘が自分と同じように人に喜んでもらえるような態度をとれる子になるよう望んだ。しかし、娘は愛情表現をするのが苦手な子であった。というより、環境がそうさせたというほうが正しいのかもしれない。ルミ子から厳しく他人との関わり方を精神的に叩き込まれたことで、自分の感情に素直になれなくなってしまったとも考えられる。そんな娘の冷淡な態度に、ルミ子は過去の自分の他人を喜ばせられる態度と比べ、不満を覚える。しかし、母の手記の後にくる娘の回想を読むと、私たち読者は、娘の本音を知ることができる。
 一番私の胸に刺さったのは娘が母の負担が軽くなるようにと考えて、義祖母を老人ホームに入れることを母に提案した際に、母は恩知らずな子だと叱った場面での娘は心の中でこう訴える。
「ママのために言ってるのに!と泣きながら言えたら、どんなにいいだろう。力いっぱい抱きついて、わんわん泣けたらどんなに幸せだろう。」
この伝えたいのに伝わらない、ルミ子は決してこの娘の気持ちを知ることはないのだろうという虚しさと、娘の母に対する健気な愛を感じられる場面となっている。娘の子どもらしい発言と言えば、この時くらいであったように思う。それだけ、娘は子どもらしく母と接することができなかったのだということである。
 ここで、健気な愛と言うと良く聞こえるかもしれないが、この感情は決していいものではない。娘はルミ子、つまり母からの愛情に執着しているといいうことだからだ。子どもは親から愛されるということに固執してはいけないと私は考える。母(親)は私を愛してくれているだろうか、と毎日心配になるような親子関係は精神健康上良くないと感じるからだ。しつけが厳しすぎたり、親の思想をおしつけられすぎると、‘‘家族‘‘という空間が、子どもにとって不安や居心地の悪さを感じる場になり、自分の行動を自分自身でも監視するようになる。
 先ほどのルミ子の意思のなさと、自身の行動を監視するという点において、ある考えを紹介したい。

 アメリカの社会心理学者であるジョージ・ハーバート・ミードによって生まれた「アイとミー」という概念がある。人間の自我(self)というものは主我(I)と客我(me)によって構成されているとするものである。人間にはまず、他者から期待されている自分という、客観的な観点である客我が生まれる。そして、それに反応する、自分の主体である主我が生まれる。主我は他人や社会から期待されている自分の像に反応し、対抗したり、順応していくことで自我を確立していく(他社の役割取得)。これによって新しい自分の一面が生まれたり、自我が改正される(創発的内省性)。この動作は、無限に作用していく。それは社会にいる限り、他者との関りは途絶えないからであり、関りが途絶えない限り、他者の役割取得は継続するからである。

 「母性」を読んで、人間にとって最初の社会環境である”家族”の中で形成される自我が、個人にとって非常に重要であることを改めて理解することができた。わかりやすい例はルミ子である。母から期待されている自分像を理解しているが、まるでそれに反応・対抗する主我がない、つまり主体性がないのである。母が好きだから、私も好き。母が私にこうしてほしいと望むから、そうする。
  また、親からの愛を過剰に求める子どもは、客我であるMeによって主体である自分自身の行動を必要以上に監視する。そうなってしまうと、娘のように自分の行動に自信が持てなくなり、自己嫌悪に陥ったり、自身の素直な態度を示せないことになる。そして他者(母)の期待に応えられないと、っそれを重く捉え、自己の存在に対して不安を覚える。
 これらの状態は、自分の存在価値を他人に委ねてしまうため、依存気質にあることが多い。娘のようなタイプだと、期待に応えられない自分に嫌悪感を抱き、存在価値を見失いがちになる。見失った結果、その相手(この場合は母)に当たる人物を見つけ、依存する。どちらとも、誰かとの関りの中に、自分の価値を見出そうとしてしまうのである。
  つまり、”家族”という社会の中で、まず「自分」という安定した地面を作ってあげることが子どもにとって重要であると考える。それは、まさしく「ありのままでいい」ということ。自分らしく生きることの選択肢を選べるような環境を作るべきだと考える。
 それを実現させるには、親は子どもに過度な期待をしない、せめて、期待している像があることを子どもに察せないようにすることである。大人が認識している以上に、子どもは大人の考えていることがわかるものである。なので、選択を迫られるたび、親の顔を気にし、好きなように人生を歩めない子どもを増やさないために、個人を尊重した教育が大事なのである。教育とは、勉強など何かを教えるということに限らない。家族関係そのものが、子どもにとって教育となる。
 子どもの頃の感情や記憶は、生涯保管され、大人になっても自我に影響を与え続けるものである。そのため、家族という環境、親子という関係性を重要視しなければならない。


ー過去を生きるー

 いままで、様々な場面で「家族との関係性が子どもの将来に大きく影響を与える」と書いてきたが、明確に何に、どう影響を与えるのかを、私自身理解しきれていなかった。しかし。「愛という名の支配」(田嶋陽子 2019)を読んでやっと理解することができた。
 「愛という名の支配」の作者である、田嶋陽子さんは、フランス人男性と交際をしていた時のことを 第5章 抑圧のファミリー・チェーンをどう断ち切るか で語っている。田嶋さんは、その男性との関係性が上手く作れなかったと、お互いを尊重するよりも、支配したいという気持ちや、どうして理解してくれないのかと、お互いが主張し合う状態であったと記していた。田嶋さんは、その時の二人の関係性について、こう語っている。
「それぞれが子ども時代から解決されないままかかえこんでいた問題を、相手との関係のなかで再現し、追体験し、そうすることによって、自分を修復しようとしていた」
田嶋さんは、子ども時代、母親に抑圧されていたことが引き金となり、その時の感情を解くことができないまま大人になったことで、彼から受ける制限であったり、抑圧に過敏に反応してしまっていたという。フランス人の彼も同様に、田嶋さんへの支配欲は彼の生い立ちとかかわりがあったそうだ。
 つまり、幼少期の頃の家庭内での経験は、その人自身の人間関係の基盤を作るものであり、それは一種のトラウマのような作用をする。また、家族との間で解決しきれなかった問題や些細な出来事も、その人の人生に大きな足跡を残し、家族ではない他人にその役割を担ってもらおうとする。それは、友人や恋人や人それぞれかもしれないが、そういった相手に対し、親にしてもらいたかった対応を求めたり、親にしたかった対応をする傾向にある。そして、この考え方や行動は相手にとっても、自分にとっても良くない関係性を作り出す。過剰に干渉したり、自己中心的な言動が増える傾向にある。自分の要求をのみこんでもらえないと、不機嫌になるなど、互いを尊重していない関係に発展してしまう。そしてそれは、相手への執着や依存につながる。こういった依存の流れは、子供の頃の感情や記憶を自分にとって良い方向に改変させるために、親以外の新たな依存先である宿主を身近な友人や恋人の中に見つけ、再現しようとする。わかりやすく田嶋陽子さんがこう言っている。

「人はどこかで対象を見つけて、自分の過去をもう一度そこに投影して生きなおしてみたくなる。」

 つまり他人との付き合い方の中で親を投影しながら接してしまう。母との関係、父との関係、家族との解決できなかった"わだかまり"が、関わっていく人達に対する接し方に影響するのだ。
 少し違った例かもしれないが、私は、つい数年前、無性にスキー場に行きたくなった時期があった。スキーをしたかったというより、スキー場に行きたかったのだ。それは、子供の頃、家族全員で過ごした幸せな記憶が色濃く残っていたからだった。そして、私はその過去の記憶にすがるように、今でも再現できるかもしれない、その幸せを味わえるかもしれないと考えていたのだ。結局、家族でスキーに行くということは実行されなかったが、行っていたとしても、それは再現にはならないと気づくことができた。再現しようとすればするほど、期待値だけは上がり、無謀なことであると気づいた。過去は過去のものである、現在と過去を同化させてはいけない。そうわかったとき、切なさと無常感に苛まれたが、それが人生であり、今を生きるということなのだと考えるようになってからは、過去を生きなおしたいという感情はなくなった。

 もし今、誰かに依存してしまっている人がいるとすれば、それはその相手に固執しているのではなく、自分の人生の中のなにかに固執しており、間接的にその経験をやり直そうとしているのではないかということを考えてみてほしい。そうすれば、自分にはその人しかいないと思わなくて済むかもしれない。私は、自己の解釈は、人生の生きやすさに通じると信じている。自分にはその人しかいないと考えるのは、人生の視野を狭くする要因になり得る。誰かを中心にせず、自分自身の人生を生きることを大事にしてほしいし、私自身もそう心がけている。

ー最後にー

 社会学を学んでいる最中である私は、作中に出てくる「母性など本来は存在せず、女を家庭に縛り付けるために、男が勝手に作り出し、神聖化させたまやかしの性質をあらわす言葉にすぎないのではないか」という言葉を見て、このような視点が大事なのだろうなと感じた。そして‘‘女性‘‘について学ぶために、「愛という名の支配」を読んで、新たに発見したことは、自分自身が男性に対し、自ら奴隷的役割を進んで行っていたり、差別的にも捉えられる男性の言動になんら違和感を感じていなかったということだ。いや、違和感は感じていたのかもしれない。しかし、女性として生きる上では仕方ないと、受け入れることも必要だと認識していた。

  しかし、この本を読んでから、フェミニズムの観点から話題になった、昨年公開された「バービー」と、今年公開された「哀れなるものたち」のふたつの映画の捉え方がわかった。ただ個人的な解釈ではあるが、「哀れなるものたち」は女性は男性の所有物ではない、なにをして、何者になるのかは自分自身で決める権利がある、と伝えていると感じた。そして、「バービー」に関しては現代の男性社会をかなり批判的に描いており、男性は最大限滑稽に見えるよう描写されていたわけだが、この映画での女性の男性に媚びたり、おだて上げる行為は、女性の武器であり、生きる手段であるというメッセージがあったと感じた。見ている間、バービーたちの、男性を存分にいい気分にさせ、そのを隙を狙う計画に対して、これでいいのか?と感じたが、実際の今の社会では、女性が男性に堂々と立ち向かうよりも、現実的で効果的なのかもしれないと考えるようになった。
 しかし、「愛という名の支配」ではバービーの中にあるような、女性たちの従属的な態度をとること自体、そしてその行為を許す社会を批判していた。現代でも、まだ、女性が根本的に男性と同じ土台で扱われることは難しいかもしれない。私も、一人の人間としてではなく、固定的な「女」という概念として扱われている状況にあっても、「差別だ!」とは感じないだろう。しかし、日常の様々な面で女性が縛られていることは確かである。今回、「母性」を読み、そして「愛という名の支配」を読むことで、家族という関係にも、社会全体にも、そして女性の生きる道を考えるきっかけも、たくさんあることに気づかされた。今後は、女性の人権について、現代の社会での女性の人生とは、について考えていきたい。






『時は流れる。流れるからこそ、母への思いも変化する。それでも愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性なのではないだろうか。』

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引用:
湊かなえ 母性(2015)
田嶋陽子 愛という名の支配(2019)
田村由美 ミステリと言う勿れ(2018)


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