民族という「血」を背負うこと (映画『サーミの血』鑑賞録)
サーミ。
スウェーデンの原住民族を指すこの名前を知ったのは、まだ1ヶ月ちょっと前のこと。
世界各地の雪を見つめ続けている写真家、遠藤励さんとお会いした時に、サーミの長老の話を録音をしたものを聴かせてくれた。
傷を治したり、人の未来を予測したりできるという長老が「(特別な能力というより)僕らは人よりもよく観察しているんだ」と話していたのがとても印象的だった。
自然をずっと見つめ続け、自然と共に生きている…
長老の声を聞きながら、サーミの人たちの暮らしを想像した。
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アップリンクの「見逃した映画祭」に『サーミの血』というタイトルを見た時、咄嗟に見に行かなきゃ!と思った。でもよくよく見てみたら、彼らが迫害を受けていた歴史を描いた作品だった。
スウェーデン人に比べて小柄なサーミ。まるで未知の生物を観察するかのように、裸体で体のパーツを計測されたり。「脳が文明についていけないことが証明されている」と言われたり。狩猟をし、自然の中で暮らしているために「臭い」と馬鹿にされたり。
そんな「サーミ」という自分の出自を憎み、伝統的な衣服も、独自の言語も、自然に即した暮らしも捨てて、「スウェーデン人」になろうとする主人公の少女を、何度も何度も跳ね除けるような出来事が襲う。
どんなに装いを変えても、どんなに言葉をうまく操れても、決して変えることのできない血。決して否定することのできない血…。
最後には家族とも決別し、そのまま年老いていった主人公。大好きな妹に、サヨウナラも言えないまま…。
もしかしたら、サーミという存在を一番"差別"的な感情で見ていたのは、彼女自身なのかもしれない。
本当は愛し合っているはずなのに、大切にしたいはずなのに、嫌うことしかできなかった家族の関係性は苦しくてたまらない。でもこれもきっと真理。
(日本と海外のミックスの子どもたちが、一定の年齢になると、日本語を話せない親を蔑むようになることがある…という、かつて聞いた話を思い出した。)
同時に、"差別"と"区別"の難しさについても考えさせられる。映画のなかでは、人類学を専攻している女性が、サーミの伝統的な歌、ヨイクを歌って欲しいとお願いする場面がある。主人公はそれを「屈辱的」に感じていたけど、果たして頼んだ彼女に差別の意識があったのかはわからない。
違いは違いとして存在するなかで、その違いを消すことや、触れないことが、イコール"差別しない"ことではないはずだから…。
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一方で、映画のなかで、サーミに対して「彼らには彼らの役割がある」「彼ら自身の暮らしをしなければ、民族が消滅してしまう」と語るスウェーデン人も登場する。
民族の伝統・文化を守ることの大切さもわかるものの、それを背負う義務を押し付けることはできるのか?そこから逃れる自由は認められないのか…?
ここで、冒頭の遠藤さんに教えてもらった別の話を思い出す。確かグリーンランドで、原住民の女性と結婚し、そこで暮らし続けている日本人男性がいるという。70か80歳ぐらいになった彼は今では、民族一番の狩人として尊敬されていたり、彼しかもう作れない伝統食もあるのだとか…。
その男性のことを考えると、民族の伝統や文化は、必ずしもその"血"をもつものが継がなければいけないのかも、疑問に思えてくる。
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本作の監督、アマンダ・シェーネルもサーミの血を引く人物で、主演のレーネ=セシリア・スパルロクは、今もノルウェーでトナカイを飼い暮らしているサーミ人とのこと。どんな思いでこの作品を作り、演じていたのかがとても気になる。
そして、世界のいろんな場所で、きっと同じような悲しい歴史と、同じようなたくさんの葛藤が、積み重ねられてきたのだろうと思う。
『サーミの血』、劇場上映はすでに終了していますが、ネット配信はされているようですので、ご興味のある方はぜひご覧ください。