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【小説】イモータリティ イズ ジャスティス〜『ボーダーガード』#8

『ボーダーガード』(原題:Border Guards)はオーストラリア出身のSF作家グレッグ・イーガンが、1999年に発表した短編小説です。2000年の英語圏のSF・ファンタジーの文学賞であるローカス賞中編部門を受賞しています。本作品は、短編集『しあわせの理由』(早川書房、2003年)に収録されています。

イーガンは現代ハードSFの代表的作家です。ハードSFとは、厳密な科学理論に基づいて描かれたSF小説のことを言います。そのため、ハードSFというジャンルは、人によっては、特に文系?の方からは、難しいのではということで敬遠されるという話をよく聞きますが、イーガンの小説は実はサイエンス(Science)というより、スペキュレイティブ(Speculative)、思弁的、哲学的な色の方が濃いように感じます。

イーガンの小説はハードなサイエンスを下敷きにし、人間の変容を描くというザ・SF的な面白さがあります。

この短編集の中でも『ボーダーガード』は、イーガンのハードなサイエンスの部分を初っ端にガンガン突き付けて意味不明に進んでいき、中盤から巻き起こる哲学的な議論が見どころになっています。

理解不能!量子サッカー

物語は主人公のジャミルが、競技場で行われている量子サッカーの試合に飛び入り参加することから始まります。そもそも量子サッカーってなんだよ!と読んでいて困惑しますが、自分は読み進めても結局量子サッカーとはどういう競技なのか全くイメージできずに終わりました。

ルールとしては、波動関数やら振動やら位置エネルギーをどうたらこうたらして、ボールがゴールに入る確率を設定した閾値以上にするものらしいです。
それは自分が文系なのかという可能性もありそうですが、多分理系の人でさえも、物理学を大学までやった人でなければ理解できないのではという気がします。。。

まあ、SFは話の本筋を見ることができれば、科学の部分がわからなくともちゃんと読めるので問題ないです。(そうでないとこの小説は、ほぼ読める人がいなくなるのでは。。)

訳者あとがきにも「この作品のメインは中盤からの展開と、登場人物の口を借りて語られる作者の様々なコメントにこそある」と書かれているので、量子サッカーは高級な意味なしジョークなんだという認識でいいのではと思います。(ストーリーにあまり絡んでこないですしね。。)

なので、ここで理解できないから読まないというのはもったいないです!
50ページくらいしかないので、わからなくても先に読み進めましょう!
ちなみに、量子サッカーの解説が作者のHPで公開されています。結局見たところでよくわからないのですが、これぞハードSFというような科学的な解説が豊富です。(理系に行けばよかったと高校の時から結構後悔しているところです。)

不老不死は幸福か?

この作品のハイライトは、不老不死になった人々が、死のあった世界について語り合う部分です。

この作品の世界では、人々は人格を<宝石>(jewel)という装置に移し、<新世界>(New Territories)という人工宇宙の中の都市に住んでいます。身体と精神が分離された事による不老不死の実現による、人々の死生観の変化がこの作品の見どころです。
(※<宝石>は、グレッグ・イーガンの短編集『祈りの海』に収録されている『ぼくであることを』にも登場しますので、ぜひこちらも読んでみてください。)

不老不死は幸福か?という話は、意外とありきたりなテーマかと思います。
こういう話に不老不死になっても幸福にはならないのがお決まりの流れで、不老不死の人が死にたいと呟き、死があるからこそ生が輝くと言った説教くさい話になるのが、定番のように感じます。

しかし、この作品ではこのような考え方は、抗えない死に対する自然主義的誤謬(※)だと主張し、過去の人々を悲劇主義者であると断罪します。
(※「自然主義的誤謬」は、事実(人間は必ず死ぬ)から価値判断(死は善である)を導くことはできないという意味で用いられています。ただ、wikiを見るとこれは本来の用法と異なり、このような使い方は「ヒュームの法則」であるというような話がありますが、倫理学の本を読むと、ヒュームの法則をあげた上で、自然主義的誤謬という使い方でも問題ないというような記述があります。)

「一万年にわたって築かれてきた詭弁は、ひと晩で消え失せたりしないから」(中略)「それまでの人類の文化という文化は、死と折りあいをつけるという問題に、膨大な寮の知的努力を注ぎこんでいた。大半の宗教は、死についての手のこんだ嘘を築きあげ、死をじっさいのものとは違うものに見せかけてきたーーもっとも、人生のほうについて嘘をついた宗教もいくつかあったわね。そして、哲学の中でもっとも宗教と縁遠いものでさえ、『死が最後には勝利する』と主張せざるをえなかったので、ゆがんだものになってしまった。 それはもっとも極端な、そしてもっともわかりやすいかたちの自然主義的誤謬だったけれど、それがわかっているからといって、不死への攻撃がやんだりはしなかった。どんな子どもにも、死は無意味で、不意に起こる、不当な、言葉にできないほどいやなものであることはわかるーーだとしたら、その逆を信じることが、高邁な思想の証明になるいうわけ。(中略)この忌まわしい不死という病によって人間の精神が破壊されるといって嘆きはじめた。人間には魂を鍛えるために、死と苦悩が必要なのだ!心底ぞっとするような自由と安全ではなく!」(中略)
「(中略)理想のために日々働くことや、ましてやそのために死ぬことが崇高でありえるのは、理想の達成それ自体もすばらしいことである場合だけ。その逆の主張は高邁な思想なんかじゃなくて、一種の偽善にすぎないわ。目的地に到着することより、その途中の移動に意味があるというなら、そもそも旅に出るべきではないのよ。(中略)」

グレッグ・イーガン/山岸真 編・訳『しあわせの理由』「ボーダーガード」,早川書房,1999年,
296~299ページ

死がなぜ悪いのかというと、死は今後の幸福になれたであろう機会を奪うという剥奪説というの考え方があります。

作品中でも剥奪説のような考え方がセリフにあります。

「(中略)悲劇主義者たちはまちがっていた。かれらはなにもかもをひっくり返にしていたのね。死が人生に意味をあたえることは決してない。つねに、それは正反対だった。死のもつ厳粛さも、意味深さも、そのすべては、それが終わらせたものから奪いとったものだった。けれど、生の価値は、つねにすべてが生そのものの中にあるーーそれがやがて失われるからでも、それがはかないからでもなくて。」

同302ページ

不老不死が登場する物語は、普通は限りある生を生きるからこそ素晴らしいんだと耳タコの話を聞かされますが、周りがみんな不老不死になった世界で、過去の世界を嘲笑うという自分の価値観を疑い始めてしまう唯一無二の作品ではないでしょうか。

価値観は変わる

現代は死は避けることができないため、自己防衛的に死に対してある種の崇高さを感じているのではないでしょうか。個人の死自体は悲劇ですが、死という概念は神聖です。

この矛盾した状況は、まさに死という私たち自身納得させるために、死を崇拝しているのです。
死が素晴らしいものでないと、私たちは死に向き合うことができないのです。

私たちの世界では、現在、まだ死を避けることができないため、死を克服した世界の価値観を想像するのは難しいです。

しかし、死が避けられるとしたら?
私たちの価値観はもしかするとボーダーガードの世界のように変わるのかもしれません。

実は自分は、実社会でも似たようなことを感じることがあります。
それは仕事についてです。
仕事にやりがいを求めるのは、まさに死を崇拝するようなものではないのでしょうか。仕事がやりがいがあるものではないと、私たちは仕事を向き合うことが難しいのです。

もし、ベーシックインカムが実現し、仕事がやらなくてもいい社会になったら、私たちは仕事を続けるのでしょうか。古代ギリシアでは、労働は奴隷の仕事で、市民は政治や哲学に力を注いでいました。
仕事は素晴らしいものだという自己合理化からいつか抜け出したときに、不老不死についての考え方も変わるきっかけになるのではないかと感じています。

参考文献

世間的には、やはり不死が本当に善なのかというのは、懐疑的な意見が多数ですが、不死についての考えを深めることができる参考文献を紹介します。

  • シェリー・ケーガン/柴田裕之『「死」とは何か』,文響社,2019年

本書の中に不死は良いものなのかという議論もあります。
剥奪説の説明もこちらの本にあります。

不死や生延長の倫理学的な議論等がまとまっています。

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