第十席

【ここまでのあらすじ】
社会人の私は口だけと言われ、落語会に行くことにした。
今回は初落語会の二人目の話です。

お金を払った価値はあったかもしれない、と思った。
なんで私は金勘定ばかりするんだろう。自分が嫌になった。
前にネットで見たが、男は必要だったら値段を気にせずに買うらしい。女は安ければ必要なくても買うらしい。

お金の有無じゃなくて自分が欲しいか、必要かどうかで買う人間になりたい。
私はそんな人間には程遠い。
思い描いている理想とは程遠い私。そこから抜け出せない私。
もう抜け出すことを止めようとしている私。なぜなら社会人になるとは、折り合いをつけていきていくことだからだ。
嫌なことを受け流し、正面から受け取らないようにする。

それが理想の社会人ってことなんだろう。

舞台では着物姿の若い男が、座布団をひっくり返し、講釈台と椅子を持ってきた。

次は浪曲という語りの人+三味線の人の二人組であった。
初めて聞いたが、落語のようなところと歌を歌うところがあった。
三味線は即興らしい。語りの人が「ここは階段を登る音を三味線で表現しています」などと解説を挟んでくれるので、置いてきぼりにならずにすんだ。

昔見た格付けの番組で、三味線などの和楽器はその場その場で洗練された音のズレを敢えて出す、のよつなことが書いてあった。
いつか歌と三味線の音の組み合わせを理解して、解説できるようになるといいなと思った。

都内にある愛宕山の桜を取りにいく話だった。
愛宕神社に行こうと思って、そういえば2年以上実行できてないことに気付いた。

こうしてゆっくり考えてみると、色々なことを取りこぼしながら生きている。
落語・浪曲に触れると、なぜか自分の内面を無理なく見つめられる。
自分の闇をじっくりとノートに書きながら見つめたときは、苦しくて苦しくて仕方なかった。

今はそよ風の吹く日に、海辺の草原に腰を下ろしているような、そんな気持ちの中で、ふわっと心が自分にやってくる。
しゃぼん玉が自分のところに向かってくるように、心の答えが届く。
おかしな表現だが、そのように感じた。

三人目は今日の主役の落語家の、兄弟弟子という人だった。
顔はどじょうから髭を抜いたようだった。
どうでもいいが親戚のおじさんに似ているな、と思った。

この落語会にいる間、私の頭の中では色々な出来事が浮かんでは消えていく。
仕事をしている日常では、どれもこれも取るに足らなくて脇に追いやっているものだ。

三人目は、主役である兄弟子と、有名な落語家であった師匠の話をしてくれた。
そこで初めて私は、主役たちがこれまで所属していた落語協会から抜けて、これから自分がどう進んでいくか見通せる”普通の”、安定した未来を捨ててを捨てて、心から惹かれた師匠についていく決断をしたことを知った。

私は安定した道から抜け出すことができていない。
嫌で嫌でたまらない。だが安定した道を捨てることができていない。

決められたレールを嫌だと言いながら、レールから抜け出すこともできない。抜け出そうとしようともしない。
心から惹かれたものもわからない。いや、かつてはあったが、人の言葉で簡単に捨ててしまった。
才能がないと諦めてしまった。
そして欲しいものがあっても、理由をつけて手に入らないようにしている。

こんな苦しい自分を変えたい。
でも変えることが怖い。

なぜこの人たちは、そのような決断ができたのだろうか。そして今、清々しく笑えるのだろうか。
興味が湧いた。

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