見出し画像

SNSと私たちに潜む加虐性

書くべきなのかわからない。
発信するべきなのかもわからない。
ただどうか一人でも穏やかに、それだけを願って、
書き残そうと思いました。

2020年5月23日、
私が知ったのは大体16時くらいだったと思う。
テラスハウスに出演していた、プロレスラーの木村花さんが亡くなったと、SNS上で話題になった。
どうしようもない気持ちになった。

「木村花」「はなちゃん」が
一気にTwitterのトレンド入りとなる。
彼女が亡くなった原因や真意は明らかになってない中なのに、背景としてSNSでの炎上が注目され、
死に追いやった犯人は誰かと、Twitterポリスが急に現れる。
誰でもないよ、そして私もあなたも、きっとみんなだ。あと本当のことなんて、どう頑張っても、もうわからない。

23日23時の時点で、日本のトレンド1位は、
# 誹謗中傷となった。
その時点で#木村花#はなちゃんといった、
彼女自身に対するタグは上位30位から外れていた。
24日になる直前で、トレンド1位は別の言葉になっていた。

きっと次は、テラスハウスでコメンテーターとして”仕事”をしている山ちゃんや、制作サイドに対して、批判が集中するのだろうと思った。
怖いもの見たさでアカウントをみるのもよくないが、案の定だった。
明日のニュースでは、別のタレントがコメントをし、
その”正しさ”が問われるのだろうか?
すでに見たくない。

この世界は私たちのはかり知れない規模で、
だれかが台本を書いているのか?
彼女の死が、ハッシュタグで共有される流れが異様で怖く、すべては物語としてコンテンツ消費されていくような感覚。
テラスハウスのお決まりの冒頭挨拶、
「台本は一切ございません」
までも、精巧に作りこまれた皮肉にさえ思えてくる。

どうしても、最近のインターネットに違和感がある。
そう思ったのはいつからだろうか。
特に影響力のある芸能人が叩かれることは日常茶飯事で、
KingGnu井口さんの熱愛報道然り、
きゃりーちゃんの政治的発言然り、
たたかれている姿をみると、
いつからみな、こんなに正義感のある人であふれたのだろうと思う。
他人の行動を通してでないと、自分の思いを伝えられないのだろうか?

例えば検察庁法改正に対して、
賛成するも反対するも正解はないし、
どんな人と恋愛するかも、正解なんてない。
まして、他人が下した判断に対して、
その正しさを問うのは
よっぽどその人が好きで仕方なく、歪んでいるなあと思う。そしてもう少しだけ、互いに対する想像力があればと思う。

私自身にも言えることだが、
自分の正しさを確認するために
他人を批判する、見下す、蹴落とすことほど虚しいものはないと、心に刻まなくてはならないのだろう。

自分の正しさを、SNS上で、特に他人を批判する形で、確かめるのをやめてくれ。
どうかどうか、やめたいと思った。

正しさなんて、結局どこにもなくて、
すべては私と世界の間の誤解で進行している。
私たちはいつも誤解しているし、
だからできるだけ正しくありたいと思ってしまう。
私がいいと判断したなら、それ以上はどうしようもないというのに。

最近のSNSは”正しいもの発信するべき”という風潮が強いから、息苦しかったのだとおもった。

私たちが今できることは、
自分たちの日常の発言、発信、
行動に潜む誤解と加虐性を自覚し、
その先を少しでも想像することなのではないだろうか?
どんなに正しくありたくても、誤ってしまうし、
傷つけしまう。
その気はなくとも、目つき、言葉尻、タイミングで、
差別だって批判だって、生まれるうるし、
SNSなんてその温床だ。

ちょっと文脈は変わるけど、コロナだってそうだ。
今は誰しもが、コロナを介して、加害者にも被害者にもなりうる。
そういった危機感を、こんなに大きな規模で、
皆が抱くのは早々にあるもんじゃない。

自分達にはらむ誤りや加虐性によって、
発言や行動ができない、おびえるわけではなく、
しっかりと認識し、ちゃんと責任を取る覚悟を持つ。

明日も明後日も、誹謗中傷がなくなることはないし、
誹謗中傷の中にも、各個人の壮絶なトラウマや、どうしようもない嫌悪、発せずにはいられない世の中の息苦しさだってあるのかもしれない。
だからって他人を傷つけていい理由には
全くならないんですけれども。

結局自由に発言できる場は必要だろうが、
代わりのちゃんとした責任を持つ。
誹謗中傷を受けたならば、相手の情報開示を請求する権利くらい、そろそろ考えてもいい気がする。
その判断は大変難しいけれども。

いろいろいっても、私の腹はへるし、今日もゆっくり眠るし、明日もたぶん起きる。
花ちゃんと本当に関わりのあった方、ご家族の痛みは
完璧にわかるわけでもないし、何より花ちゃんの痛みも、わかるわけがない。
そもそも誹謗中傷だけが彼女の死の原因なのかもわからないし、
明日になったら、申し訳ないが、この話題に対する思いは薄れているはずだ。

結局、本当の意味で痛みがないと
私たちは改心なんてしないだろう。
テラハも見たことがない友達が、
「なんか近しい人が亡くなった感覚😭」
といっていて、絵文字の意味がわからなかった。

私はそれほどにも浅はかで、弱く、ただ生きている。
だから誰かにどうしてほしいとか、あんまりない。
というか言える立場でもない。

ちゃんと忘れないように、何かを発信するときに忘れないように書き残そうと思いました。

他者が聞いてやりたいと思うか、助けてやりたいと思うか、なんてことがその気持ちが存在していいかを決めるわけもなく、
むしろ、その気持ちが垂れ流せるだけで救われることがあるはず。
「書く」ことより、「書けない」ことの方が今はずっと孤立している。

今日、最果タヒさんがブログで「インターン蕁麻疹」を発信していた。
ちょっとすっきりとした気持ちになった。
「言いたい」「書きたい」がもっといい意味で適当に、
受け流すことができる、想像力のある世界にしていきたいと、思った。

#日記 #インターネット #SNS #最果タヒ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?