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君に花束を 3


 エミとふたりの男

 夏休みを間近に迎えた或る日、電車に乗っていたら気分が悪くなってきた。降りる駅はまだ先で、わたしは背が低いから吊り革に摑まることが出来ない。電車の揺れの所為で吐き気がこみ上げてくる。なんとか我慢して俯いて立っていたら、隣の青年が「大丈夫?」と声を掛けてきた。
「ちょっと気持ち悪くて」
 そう答えると、もうじき駅に着くからそれまで我慢出来るかと訊ねてきた。頷くと、彼は少しほっとした表情になった。わたしの顔色も悪かっただろうが、彼も病気なのかと思えるほど青白い顔をしている。肩に届くくらいの長い髪で、前髪で顔の半分が隠れていた。着ている服も矢鱈と襤褸い。
 駅についたら、彼はわたしを抱えるようにして足早にトイレへ向かい、男子トイレだったので、片手でわたしの目を覆って個室に這入った。我慢しきれず便器に吐き出したら、彼はわたしの髪を束ねるように持って、背中を擦ってくれた。
 すべて吐き出して荒い息をついていたら、背中を擦りながら「もう大丈夫か」と訊ねてきた。頷くと、男便所にいつまでも居るのは不味いから出ようと、またわたしの目を塞いでトイレを出ると、ホームのベンチへ連れて行った。
 わたしをそこに残して彼は何処かへ行ってしまった。ベンチに腰掛けて待っていると、炭酸水のペットボトルを手にして戻ってきた。蓋を取って、これを飲んだら少しすっきりするからと云ってわたしに差し出した。飲んでみたら炭酸があまりきつくなく、胃がすっとした。
 わたしの前にしゃがんでいた彼は、羽織っていたシャツを脱いで目元や口の周りを拭ってくれた。ハンカチを持っていなかったらしい。
 落ち着いてきたら、わたしの手を取って立ち上がり、降りる駅まで送ってくれた。お礼がしたいから名前と電話番号を教えてくれと云ったら、そんなことをしなくてもいいと渋っているので、このまま何もしなかったらひとでなしになってしまうと訴えた。
 彼はしょうがないな、といった感じで、携帯電話のデータを転送してくれた。
 液晶には「水尾健司」と表示されていた。
 ケンジ君にお礼をしようと思っても彼は要らないと云って、電話を掛けてもメールをしても、今忙しいから、今は手が離せないと返事をするばかりだった。嘘は云っていないようで、電話を掛けると女性の話し声がしたり、何か煩瑣い物音がしたりしていた。
 お礼も出来ず、会うことも叶わなかったが、わたしは彼のことが忘れられずに何度も電話をしてメールを送った。
 或る日、はじめてケンジ君の方からメールがあった。何かと思って確認したら、「女と切れた」とだけ書かれていた。誰かと間違えて送ったようだ。どう反応していいか判らなかったので、返事はしなかった。それでも、どうしても気になったので、前に聞いていた彼の居住するアパートへ訪ねて行った。
 部屋の番号は知らなかったから、彼が出てくるまでアパートの前で待っていた。夕方にアルバイトに行くことは知っていたので、その時間に間に合うように行ったら、十五分ほどでケンジ君は出てきた。わたしの姿を認めると、顔を顰めて「こんな処にお嬢様が来るなよ」と云った。そのアパートは東三区にあり、東地区は治安があまり良くなかったのである。


 つき合いだしてから高校の学園祭に呼んだら、彼は厭々ながらも来てくれた。わたしの参加する部活は人類学研究会という堅苦しい名前だったが、やっていることは生活文化全般のあらゆること、それこそ適当な雑誌に載っているようなものを実践するだけの部活だった。学園祭では江戸時代のお茶屋さんのような店を出した。
 ケンジ君が顔を出したら、女の子しか居ない部員はざわめき立った。髪が長く痩せて背の高い彼のことを、ロックミュージシャンだと思ったようなのだ。ケンジ君は好んで音楽を聴いたりしないので、そういったものにまったく疎いのだが。
 わたしが彼をみんなに紹介すると、ケンジ君は軽く会釈して、すぐに何処かへ行ってしまった。
「ねえねえ、エミちゃん。あのひと、凄くカッコいいじゃない、何処で知り合ったの?」
 彼と出会った時の顛末を話したら、皆、溜め息を漏らして聞き入っていた。自分で思い返してみても、ドラマのような出来事である。何処の誰が、地下鉄で隣に立っていただけの娘が気持ち悪そうにしているからといって、用もない駅に降りて介抱し、降りる駅までつき添ってくれるだろうか。
 しかもケンジ君は、その見返りをまったく求めなかったのだ。
 彼がわたしをいつまでも子供扱いするので、どうして女として扱ってくれないのかと何度も訊ねたが、彼は笑ってはぐらかすだけだった。高校の卒業証書を持って彼のアパートを訪ねた時、ケンジ君はわたしが強姦されても、ふーんくらいしか云わないに違いないと云ったら、そんな訳ないだろ、と此方を睨みつけた。
 少し恐くなって体を竦めたら、彼はわたしをいきなり抱き寄せてキスをした。息がつけなくて気が遠くなりそうだった。ふっと唇が離れたと思ったら、再び軽く触れた。
 慣れた感じで服を脱がせ、まるでこんなことは日常茶飯事だとばかりに片手でブラジャーのホックを外すと、彼は吹き出した。何かと思ったら、「おまえみてえなちいせえ胸に合うブラジャーのサイズってどんなもんかと思ったら、AAなんてのがあるんだ」晒でも巻いとけよ、と大笑いした。恥ずかしくなって胸を隠すと、その手をそっとずらし、身を屈めてじっと胸を見て、形はいいな、と呟いた。
 わたしと会った時、女性とつき合っていたようだが、どうも彼は経験豊富らしくて、それだからこそ余計にわたしが子供に思えるのだろう。
 重い木綿布団に潜って彼の薄い胸板に顔を埋めていた。ケンジ君は思ったよりも痩せていて、肋がくっきり浮き出ていた。その背中に手を廻して、背骨のひとつひとつをなぞるように触った。滑らかな肌をしていて、日光にまったく当たっていないような青白さだった。実際のところは、肉体労働のアルバイトばかりしているのだが。
 彼はわたしを抱いたことを後悔しているようだった。妹を犯したような気持ちになったのだろうか。


 入学式の日、ケンジ君はサークルの新入部員勧誘の為に学校へ行くからついてってやるよ、と云った。講堂で、彼は父や母とは離れた場所で立って見ていた。式が終わる頃には姿が見えなくなったので、皆から離れて外へ探しに行ったら、傍の立ち木の処に佇んでいた。
 その姿がまるで陽炎のように周囲の景色に溶け込んでしまいそうで、恐くなって傍へ駆け寄った。彼は不思議そうな顔をして、どうした、とわたしを覗き込んだ。いつもと変わらない様子にわたしは安心して彼の手を取り、そのまま、彼の参加している映画研究会が新入生を勧誘している処へ向かった。
 そこへ近づいたら、サークルの部員らしきひとたちが手を振って、彼に向かって逃げろとか、馬鹿、堂々と歩いてるなよ、と大声で云ってきた。変人ばかり居ると聞いてはいたが、予想以上である。が、彼らはわたしを幼い子供だと思い、ケンジ君が誘拐してきたのだと勘違いしていたのだ。
 彼のアパートの隣人である來河池さんも、わたしたちをはじめて見た時に同じような反応をした。わたしの友人は誰もそんな風に思わなかったのだが、男のひとにはそうとしか見られないのだろうか。
 映画研究会には彼の親友も参加しており、紹介してもらった。少し冷たい顔立ちをしていたが、話すと物腰が柔らかで優しい感じのひとだった。
 今井数見ですと軽くお辞儀をして、「こんな襤褸切れみたいな男を好きになってくれてありがとう」と笑った。慥かにケンジ君は襤褸を纏っているようにしか見えないが、そこまでのことを本人の前で云うだろうか。親しいから平気なのか。
 ケンジ君と今井さんはとても仲が良く、サークルのひとたちから恋人同士だと思われていたらしい。わたしのことを知ってから、今井さんは「元カレ」呼ばわりされていた。腹が立たないのか訊いてみたら、あんなことをいちいち取り合っていたら映研ではやってゆけないと笑った。
 その言葉通り、映研のひとたちはケンジ君と今井さんを除いた全員がかなりの変わり者で、映画のことなどまったく話題にせず、オカルトや超常現象のことばかり話していた。部室にもそういった雑誌が溢れ返っている。
 男性しか居ない割にはきれいに整理整頓されているので、いつもこうなのかと訊ねたら、女の新入部員が入るので、ケンジ君と今井さんが三日がかりで片づけたという。
 ケンジ君の部屋はものが殆どなく、片づけるほどでもないのだが、それでもきれいに整頓されていた。衣類はきちんと畳まれ、食器の類いが出しっ放しにされていたことは一度もない。字なども非常に几帳面で読み易かった。


 ケンジ君は自分の生活を支えるのが精一杯の苦学生で、若者が出向く処へ連れて行ってくれることはあまりなかったが、わたしに気を遣って動物園や植物園へ一緒に行ってくれた。彼はそんな処に興味などなかっただろうし、行っても愉しくなかっただろうけれど、そうした公共施設は安いので仕方がない。
 それでも、わたしはケンジ君と一緒に居るだけで楽しくて幸せだった。
 それなのに、彼はわたしの前でいきなり仆れたかと思ったら、そのまま死んで了った。あまりに突然のことで、何が起こったのか理解出来ないほどだった。慌てて呼んだ救急車が到着する頃には、既に息をしていなかった。
 救急隊員が心臓マッサージをしても駄目だった。お父さんの病院に運んでもらって電気ショックを与えても、もう手遅れだった。
 今井さんに連絡したら、彼はすっ飛んできた。緊急外来に置かれたままのケンジ君の姿を見ると一刹那、呆然と立ち尽くしていたが、すぐに傍に寄って、彼の遺体に覆い被さって男泣きに泣いた。あんな風に泣く男のひとを見たのははじめてだった。彼はもしかしたら、わたしよりケンジ君の死を悲しんでいたのかも知れない。
 中学に入った頃からの友人で、高校も大学も一緒で、恋人同士に間違われるくらい仲が良かったのだ。わたしから見ても、妬いてしまうくらい仲が良かった。いつもふたりで居て、今井さんはケンジ君の髪を弄り廻すのが癖らしく、ケンジ君もそれを厭がることなく好きなようにさせていた。ケンジ君も今井さんに巫山戯て抱きついたり、しなだれかかったりしていた。
 彼が死んで、どうしたらいいのか判らなくなってしまった。けれど、ケンジ君は幽霊になって戻ってきた。不思議だと感じる前に、嬉しくて彼に抱きついた。今井さんも彼のことが見えたが、そういうひとは少なくて、わたしたち以外はケンジ君のアパートの來河池直樹さんとわたしの両親だけだった。
 葬儀のあと、数日間だけわたしの家に居たが、彼は黙って今井さんのアパートに移ってしまった。理由を訊ねても何も云わないので今井さんに訊いたら、わたしが彼のことを諦めないので冷却期間を置く為に離れたらしいと答えた。
 生きている時と同じように接することが出来るので、ついそのままの態度でいたのがケンジ君の負担になってしまったらしい。わたしは彼のことが好き過ぎて、周りが見えなくなっていたのだ。
 今井さんが云い難そうに、ミナオはおれとエミちゃんにつき合って慾しいようだ、と打ち明けた。彼のことを男性と思って見たことがなかったので、戸惑ってしまった。今井さんは優しくて良いひとだったけれど、彼はケンジ君の親友で、わたしはケンジ君の恋人だったのである。そんなふたりが交際するのは不自然な気がした。
 ケンジ君に直接真意を正したら、やはり、自分はもうエミに何もしてやれない、このままおれに執着していたら碌なことにはならないから、他に恋人を作って慾しいと云った。何も今井さんである必要はないのではないかと云ったら、他に居なかったから頼んだだけで、エミが選んだ相手なら反対はしないと答えた。
 ひとりでよく考えてみた。ケンジ君以外で親しい男のひとは、今井さんと直樹さんしか居なかった。直樹さんは恋人が居るので、消去法で行くと今井さんしか残らない。何もすぐに彼氏を作れとは云われていないのだが、今後、他の異性と親しくなることはなさそうである。
 今井さんはかなり背が高く、わたしからすると大男だった。ケンジ君が一七五センチで、彼はそれより五センチほど高い。標準からしても背の高い方だろう。わたしは一四五センチしかないのだ。ふたりで歩いていたら、わたしなど子供に見えてしまうに違いない。
 身長のコンプレックスは、わたしにとって根深いものである。幼い頃から小柄で、女の子は兎も角、男の子には軽くあしらわれ、意地悪なことを度々された。体育系の授業でも、基本的な体格が追いつかず、恥ずかしい思いを繰り返した。
 なので、体格が良いひとに対する畏怖と偏見が、わたしの裡には根強くあるのだ。背が高く容姿端麗なケンジ君に物怖じせずに対峙出来たのは、彼の中性的な佇まい故なのだろう。
 しかし、身長で好き嫌いを決めるのも失礼な話なので、今井さんの本質的な部分を思い返してみた。彼はとても優しくて、喋り方も穏やかだった。ケンジ君はお節介でよく泣く奴だと云っていたが、それも優しいが故だろう。
 ケンジ君が亡くなって一年半ほど経った頃、今井さんから電話があった。食事でもしないかという誘いだった。ケンジ君に云われたのだろうとは思ったが、断る理由もないので承諾した。ビストロのような処でふたりきりで食事をした。訊ねてみたら、ケンジ君は家に居るとのことである。
 正直に思っていることを彼に話した。今井さんは、自分もエミちゃんに恋愛感情を持つのは難しいと思うけれど、時間が経てば気持ちが変化してゆくかも知れないし、こういうことはひとに云われてどうにかなる訳でもないから、ゆっくりやって行こうと云った。
 ケンジ君は今井さんとふたりで居る時は姿を現さず、時々わたしの部屋に来て、どんな心境か訊ねてきた。今井さんは悪いひとじゃないし、ケンジ君を好きなような気持ちになれるかどうかは判らないけれど、嫌いではないと云ったら、安心したような表情になった。
 これからどうなるのか想像もつかないけれど、ケンジ君がずっと見守っていてくれるのなら、悪いことは起きないような気がした。


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